「決して死ぬことがありません」
小学校低学年の頃から「死」について考えていました。小学校2年の時に2歳だった妹が事故で亡くなった事が大きく影響していたと思います。「妹はもうどこにもいないの?」「お父さんもお母さんもいつか死んでしまうの?」「自分もいつか死ぬの?死んだらどうなるの?」考えれば考えるほど分からなくなり、不安になり、怖くなりました。周囲の大人たちに疑問を投げかけてもみました。お星様になったとか高い所から見守ってくれていると応えてくれていたと思いますが、自分の中では腑におちず「死」への恐怖はなくなリませんでした。そして、妹のことを考えるうちに自分が妹にした心無い仕打ちを思い出しました。小児麻痺だった妹を恥じていたこと、話せないのをいいことに物を壊したなど自分の罪をなすりつけたこと…初めて自分の罪を自覚したのです。さらに、私は妹を心から大切に思っていたのか、愛していたのかと自問自答し、不自由な体で生きた彼女の2歳半の命は何だったのか、幸せと感じる瞬間がどれだけあったのかと考え苦しくなりました。
そして、いつの頃からか私は「神様」に語りかけていました。私の神様のイメージは家にあった世界少年少女文学全集や世界名作劇場(アニメ)、アメリカのドラマ「大草原の小さな家」の登場人物達が祈る姿だったと思います。学校の図書室で偉人伝の中にあった「キリスト」も読みました。
それからも神様の存在が頭から離れるかとはありませんでしたが、和を重んじる日本でクリスチャンとして生きることは簡単ではないと思い教会へ行くことはできませんでした。そんな中、短大の時に文化人類学の卒業レポートのテーマに「徒然草」を取り上げました。作中、彼は何度も生きることや死について問うていますが、結局応えは得られず終わっているのです。兼好がイエス・キリストのことを聞いていたら応えは変わっていたのでしょうか。
なぜクリスチャンになったかについては今回は割愛させていただきますが、下記の聖書の言葉を紹介させていただきたいと思います。
「わたし(イエス・キリスト)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」ヨハネによる福音書11章25、26節
世界には多くの宗教がありますが、死んでよみがえったのはイエス様だけです。イエス様を信じる人が1人でも多くなり、死の恐怖から解放されることを日々祈っています。