幕屋の垂れ幕

[マタイの福音書 27:50,51]

しかし、イエスは(ふたた)大声(おおごえ)(さけ)んで(れい)(わた)された。

 すると見よ、神殿(しんでん)(まく)(うえ)から(した)まで()(ぷた)つに()けた。

[出エジプト記 26:31―35]

 「また、(あお)(むらさき)緋色(ひいろ)()(いと)、それに()(いと)()った亜麻布(あまぬの)(もち)いて、()(まく)を作る。これに意匠(いしょう)()らしてケルビムを()()す。

この()(まく)を、(きん)をかぶせたアカシヤ(ざい)四本(よんほん)(はしら)()ける。その(かぎ)(きん)で、(はしら)(よっ)つの(ぎん)台座(だいざ)(うえ)()えられる。

その()(まく)()(がね)(した)()け、()(まく)内側(うちがわ)に、あかしの(はこ)(はこ)()れる。その()(まく)は、あなたがたのために聖所(せいじょ)至聖所(しせいじょ)との仕切(しき)りとなる。

至聖所(しせいじょ)にあるあかしの(はこ)(うえ)には()(なだ)めの(ふた)()()く。

()(まく)外側(そとがわ)には(つくえ)()く。(つくえ)幕屋(まくや)南側(みなみがわ)にある燭台(しょくだい)()かい()わせる。その(つくえ)北側(きたがわ)()く。」

今日は旧約聖書の幕屋のシリーズで5番目の話です。1から4までの話を聞いていない人は、興味があれば、その説教の印刷を渡しますので、ぜひ声をかけてください。

皆さん、ビックカメラに入ったことがあるでしょうか。今の8Kの新しいテレビを見たことがありますか?信じられないぐらい(あざ)やかなイメージがありますよね。じゃ皆さん、白黒(しろくろ)テレビを(おぼ)えている方がいるでしょうか?(むかし)のテレビと現代(げんだい)のテレビを比べると全然違(ぜんぜんちが)いますね。同じように新約聖書だけ読んでももちろん素晴(すば)らしいですけれども、旧約聖書を通してイエス様の人生を見ると、8Kのテレビのように、(くわ)しいディテールが見えて来るし、白黒(しろくろ)のイエス様についての話は8Kのような(あざ)やかなイメージになり、前よりも()えなかったことを発見(はっけん)するようになります。イエス様は旧約聖書での予言(よげん)律法(りっぽう)(まつ)りと(まつ)りの儀式(ぎしき)究極(きゅうきょく)現実(げんじつ)であり、実現者(じつげんしゃ)であるからです。さらにこのことは聖書が聖霊様の(みちび)きによって()かれていたと(しん)じる私達の信念(しんねん)をもっと(つよ)めてくれます。イエス様の地上(ちじょう)の人生と死とよみがえり、そして何千何百(なんせんなんびゃく)年前に書かれた旧約聖書が、複雑(ふくざつ)につながっていることをもっと明らかにしてくれます。

そして今日の幕屋(まくや)()(まく)の話を通して、イエス様の人生と、私たちにとってのその意味が前より少しでも明らかにできたら私は嬉しいです。

Introduction

では今日のテーマに入りましょう。これまで私たちは神様の御前にふさわしく(ちか)づく方法(ほうほう)はなにかということについて(まな)んできました。そのため、幕屋の外から神様の御前に()かって、幕屋(まくや)(もん)祭壇(さいだん)旋盤(せんばん)(かお)りの祭壇(さいだん)を通って、それぞれを順番(じゅんばん)(かんが)えてきました。まだ(おぼ)えているでしょうか。祭壇(さいだん)はイエス様の十字架を指しています。旋盤(せんばん)とは聖霊様(せいれいさま)の働きを指しています。(かお)りの祭壇(さいだん)は大祭司としてのイエス様の今の役割(やくわり)、つまり私たちのための祈りを指しています。

さて、私たちは前に()こうとしても、行く道はあまぬのの(かべ)にふさがれています。それはどういうものかというと、(あお)(むらさき)(あか)綺麗(きれい)なあまぬので、それにケルビムの意匠(いしょう)()りだしているものです。これは「()(まく)」と呼ばれています。Show picture

この(まく)聖所(せいじょ)至聖所(しせいじょ)の間に置いてありました。この幕の位置(いち)はとても大切(たいせつ)なのです。その位置(いち)には特別(とくべつ)目的(もくてき)があるからです。

それでその旧約聖書の時代(じだい)に垂れ幕はどいう目的があったかということを考えてみましょう。二つあります。

幕の一番目の目的

旧約聖書での垂れ幕の一つ目の目的(もくてき)は神様の御前に(ちか)づかないように(ひと)(はば)むという目的(もくてき)です。そして聖所に入ったら、垂れ幕のケルビムの意匠(いしょう)()(はい)らないというのは(むずか)しいと(おも)います。その幕に()()されているケルビムはエデンでアダムとイブが罪を犯した出来事(できごと)を思い出させる目的がありました。そのストーリーを覚えているでしょうか。その時に神様はエデンからアダムとイブを()()されて、命の木への道を守るためにケルビムと(ほのお)(けん)をエデンの(その)(ひがし)()かれました。同じようにこの幕によって人は神様の御前に()()ることを禁止(きんし)されました。

これには二つの理由(りゆう)があります。

  • 一番目の理由は神様の罪に(たい)する(いか)りということです。神様の()本質(ほんしつ)によってすべての罪が(さば)かされ、追放(ついほう)されなければなりません。
  • 二番目の理由は人の罪の代価(だいか)全部(ぜんぶ)支払(しはら)われないまま、神様の御前に立つことはできないということです。

二番目の理由のための例

この理由の二番目についてもう少し考えて見ましょう。例えば、私は本当(ほんとう)に悪いことをしてしまったとしましょう。その罪が人の前にばれたら、顔をつぶされ、()げて、(かく)れたいほど、(はじ)(かん)じるでしょう。同じように罪人で神様の御前に立つとしたら()きられなくないほど恥じを感じます。

預言者であるイザヤの経験(けいけん)からも例えができます。イザヤ書6章で彼の(まぼろし)の中で神様を見た時に、かれは「ああ、私は(ほろ)んでしまう。」と言いました。つまり「僕はもうアウト」ですね。偉大(いだい)なイザヤでも神様の御前に立つことができませんでした。

イザヤでもなぜこのように思ったのでしょうか。それはユダヤ人の生贄(いけにえ)(ささ)げる儀式(ぎしき)をとおしても自分の罪が完全(かんぜん)(ゆる)された確認(かくにん)が出来なかったからです。その当時(とうじ)、イスラエル人は個人的(こじんてき)生贄(いけにえ)()って()って幕屋(まくや)(ささ)げました。そして集団(しゅうだん)としても、(なだ)めの日には神様に罪を告白(こくはく)して、(ささ)げものを(ささ)げていました。その儀式(ぎしき)はよいことですが、あまり意味はなく、イスラエル人は(ふたた)び罪を犯してしまって、悪い心が(こう)じてしまいました。「ああ、僕は神様に愛されているのだろうか、おこられているのだろうか、僕は今日死ぬとしたらどうなるのだろうか」というふうになるでしょう。

へブル人への手紙10:1-4は

律法(りっぽう)には()たるべき()きものの(かげ)はあっても、その実物(じつぶつ)はありません。ですから律法(りっぽう)は、(とし)ごとに()えず(ささ)げられる(おな)じいけにえによって(かみ)(ちか)づく人々(ひとびと)を、完全(かんぜん)にすることができません。

それができたのなら、礼拝(れいはい)する(ひと)たちは一度(いちど)で、きよめられて、もはや罪を意識(いしき)することがなくなるので、いけにえを(ささ)げることは()わったはずです。

ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が(とし)ごとに思い出されるのです。

雄牛(おうし)()やぎの()(つみ)(のぞ)くことができないからです。」と言っています。

この箇所に書かれているのは、もし、人の良心(りょうしん)が悪くないとしたら、一つの捧げもので十分ならば彼らは一度(いちど)生贄(いけにえ)(ささ)げることをやめるでしょう。

しかしその時代(じだい)のイスラエル人は幕屋で神様の御前に立てるかどうか、そして天国に(はい)れるかどうかの確認(かくにん)ができませんでした。

だが、その生贄(いけにえ)が出来なかったことがイエス様にはできたのです。へブル人への手紙10:14を覚えましょう

「なぜなら、キリストは(せい)なるものとされるひとを、一つの(ささ)げものによって永遠(えいえん)完成(かんせい)されたからです。」

私達はイエス様を神様として救い主として受け入れる時に私達の罪は完全(かんぜん)(ゆる)され、私の(わる)(こころ)(きよ)められます。イスラエル人が出来なかったことを私達はイエス様の十字架の上での(なが)された()によって出来るのです。

垂れ幕の二番目の目的を考えてみましょう

垂れ幕の二番目の目的は人が聖所に入ることができるためという目的です。混同(こんどう)しないでください。目的の一番目は、至聖所(しせいじょ)で神様の御前から(ひと)(はば)むということです。目的の二番目は至聖所(しせいじょ)ではなく、聖所(せいじょ)に入ることができるようにという目的です。この幕が至聖所(しせいじょ)聖所(せいじょ)()けなかったとしたら、聖所(せいじょ)に入ると神様の御前にいることになってしまい、前に()べたように()きられなくなってしまいます。そして人が聖所(せいじょ)で神様をもっと(ふか)()るための燭台(しょくだい)(かお)りの祭壇(さいだん)(つくえ)(たの)しみ、そのようにできるだけ神様に(ちか)づけるように、神様はこの(かたち)にしました。そして人が幕を見上げると、(まく)(いろ)意匠(いしょう)をとおして、ある程度(ていど)、神様の(うつく)しさや(きよ)さを理解することができました。

皆さんは、大聖堂(だいせいどう)に入ったことがあるでしょうか?私はアイルランドで色々な大聖堂(だいせいどう)に入ったことが()かんできます。大聖堂(だいせいどう)意匠(いしょう)(とく)内部(ないぶ)は神様の(きよ)さを考えることに()()ちます。次に

旧約聖書の垂れ幕と新約聖書との比較(ひかく)について考えたいと思います。

さて新約聖書のへブル人への手紙10:20によるイエス様のご自分の肉体(にくたい)幕屋(まくや)()(まく)(あらわ)しています。どういう意味(いみ)かというと、幕屋(まくや)()(まく)によって神様の御前が(かく)されたように、イエス様の肉体(にくたい)に神様の()()ちたご性質(せいしつ)(かたち)をとって宿(やど)っています。そして(うし)ろに神様がおられて、人はイエス様に(ちか)づいて、彼の愛、彼の言葉、彼の行為(こうい)を見た時に、神様はどのような方かを見ることができました。それを経験(けいけん)することは素晴(すば)らしいことですね。

ですが、私達は何かもっと良い事を知っています。イエス様のその人生(じんせい)がどこへ(いた)ったかということです。イエス様の肉体(にくたい)()(まく)で、神様はどのようなお方を、ある程度(ていど)まで理解(りかい)できますが、神様の本質(ほんしつ)を知りたいならば、十字架の上におられるイエスを見上げてください。その()けた肉体(にくたい)という()(まく)見上(みあ)げてください。それは神様の本質(ほんしつ)であり、神様のあなたに対する愛です!イエス様の(からだ)は私達のために()かれて、私達のためにご自分の血を(なが)してくださいました。このイメージ以外(いがい)に、神様の愛を完全(かんぜん)(あらわ)すものはありません。

今日私達の間に、まだイエス様を受け入れていない方がいらっしゃいましたら、このことを少し考えて見てください。神様はこのようにあなたに対する彼の愛を(あらわ)したいことを。

「しかし私達がまだ罪人であったときに、キリストが私達のために死なれたことによって神は私達に対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ人5:8

自分がもっと良い人になるのを神様は()たなかった、今も()っておられません。私達に対する(あい)をもう(しめ)してくださいました。

ですけれども、これは非常(ひじょう)大事(だいじ)なポイントを強調(きょうちょう)しています。つまり、イエス様の人生を見て、(あこが)れ、賞賛(しょうさん)するとしてもそれによって私達は救われません。天国に入ることができません。

幕屋の垂れ幕が神様の(きよ)さに()らして人々の罪を強調(きょうちょう)していたように、イエス様の人生は私達の罪深(つみぶか)人生(じんせい)をあらわにしています。イエス様にあこがれるだけの生活(せいかつ)()らしている人にとって天国の門はまだ()まっています。イエス様のような(まった)く、罪のない人生、完璧(かんぺき)な人生を(おく)ることをとおしてしか、天国に入ることができません。私達みなは、そのような人生をおくるのが無理(むり)だと分かっていますよね。ですから私達は神様の御前にいる資格(しかく)がないのです。ですから、イエス様の死は大事(だいじ)でした。

歴史(れきし)の中でどれほど多くの人がイエス様の死の必要(ひつよう)さを理解(りかい)できなかったでしょうか。レースを最後まで(はし)っていたが決勝線(けっしょうせん)(まえ)でたち()まってしまったように、イエス様に(あこが)れ、彼の(おし)えも実行(じっこう)しましたが、自分自身のためのイエス様の(あがな)いの死の必要(ひつよう)さを()()れず、神様として、救い主として、彼を(みと)めなかった人々(ひとびと)。マハトマ・ガンディーはある時にイエス様についてこう言いました。「イエス様は世界の中でも偉大(いだい)教師(きょうし)だったがそれ以上(いじょう)、信じません」。マハトマ・ガンディーはイエス様の教え、考えなどを、実行(じっこう)するぐらいにイエス様に(あこが)れたが、イエス様の死とよみがえりは()()れませんでした。救いはイエス様の全てを信じ、受け入れること、そうしないとイエス様は自分にとって意味(いみ)がなくなります。

今日私達にとって垂れ幕はどういう意味 – don’t read title

では今日の私達にとってこの幕屋の垂れ幕の教えはどのような意味があるでしょうか。

最初(さいしょ)にクリスチャンにとって、この垂れ幕は完全(かんぜん)()(のぞ)かれました。へブル人への手紙9:6-8と10:19-22を(くら)べてみましょう。

[へブル人への手紙 9:6,7,8]

 さて、これらの(もの)以上(いじょう)のように(ととの)えられたうえで、祭司(さいし)たちはいつも第一(だいいち)幕屋(まくや)(はい)って、礼拝(れいはい)(おこな)います。

しかし、第二(だいに)幕屋(まくや)には(ねん)一度(いちど)大祭司(だいさいし)だけが(はい)ります。そのとき、自分のため、また(たみ)()らずに(おか)した(つみ)のために(ささ)げる()(たずさ)えずに、そこに(はい)るようなことはありません。

聖霊(せいれい)は、(つぎ)のことを(しめ)しておられます。すなわち、第一(だいいち)幕屋(まくや)存続(そんぞく)しているかぎり、聖所(せいじょ)への(みち)がまだ(あきら)らかにされていないということです。

この聖句(せいく)によると、聖所への道はまだ(ひら)いていないのです。それはイエス様の死まででしたが、10:19-22はこうあります。

[へブル人への手紙 10:19,20,21,22]

 こういうわけで、兄弟(きょうだい)たち。私たちはイエスの血によって大胆(だいたん)聖所(せいじょ)(はい)ることができます。

イエスはご自分の肉体(にくたい)という()(まく)を通して、私たちのために、この新しい()ける(みち)(ひら)いてくださいました。

また私たちには、神の(いえ)(おさ)める、この偉大(いだい)祭司(さいし)がおられるのですから、

心に血が()りかけられて、邪悪(じゃあく)良心(りょうしん)をきよめられ、からだをきよい水で(あら)われ、(まった)信仰(しんこう)をもって真心(まごころ)から神に(ちか)づこうではありませんか。

この聖句(せいく)によるとその至聖所(しせいじょ)への道はクリスチャンにとってすでに(ひら)かれました。ちなみに日本語の聖書は19節に「聖所」と書いてありますが、もともとギリシャ語では複数形(ふくすうけい)聖所(せいじょ)至聖所(しせいじょ)と意味しています。とにかく、このことを理解(りかい)するためにイエス様が死んだ時(なに)()こったかを考えてみましょう。イエス様の時代(じだい)には、幕屋(まくや)じゃなくて神殿(しんでん)がありました。ですが幕屋と同じように、聖所(せいじょ)至聖所(しせいじょ)(かお)りの祭壇(さいだん)()(まく)などがありました。この神殿(しんでん)はエルサレムにありました。、イエス様が死んだ時にこの垂れ幕は神様に()かれたのです。

マタイの福音書27:50-51

しかし、イエスは(ふたた)大声(おおごえ)(さけ)んで(れい)(わた)された。

 すると見よ、神殿(しんでん)(まく)(うえ)から(した)まで()(ぷた)つに()けた。

この出来事(できごと)非常(ひじょう)重要(じゅうよう)な意味があるのです。二つの意味があります。

第一番目の意味は、イエス様が死んだ時(まさ)()こりましたということです。イエス様が教えられたときではなく、奇跡(きせき)(おこな)ったときでもない、死んだ時に()こりました。イエス様が私達の罪のために死んで、罪に対して神様の(いか)りを(にな)って、この御業(みわざ)完全(かんぜん)()()げたからこそ、神様は垂れ幕を()いたのです。 この出来事(できごと)をとおして神様は、イエス様を受け入れる人のために、神様の御前への道を開いていることを(しめ)してくださいます。

へブル人への手紙10:11-22によると、イエス様の完全な贖いの死によって私達は大胆(だいたん)至聖所(しせいじょ)に入ることができるようになったのです。この点はこの垂れ幕が裂けたことの第二番目の意味(いみ)(いた)ります。

第二番目の意味

私達が、今、至聖所に入ることができるというのはいったいどいう意味でしょうか。私達は幕屋と神殿(しんでん)について考えていたので、もしかして教会に入ること意味しているというふうに思っているかもしれません。しかし教会に入るわけではありません。へブル人への手紙9:24によると「キリストは本物(ほんもの)模型(もけい)()ぎない人の手で作られた聖所(せいじょ)(はい)られたのではなく、天そのものに(はい)られたのです。そして今私達のために神の御前に(あらわ)れてくださいます。」ですから同じように私達は心、思い、霊によって天におられる神様の御前に近づくことができます。さらに神様に自分の全ての罪は(ゆる)され、ありのままの自分がイエス様の功績(こうせき)によって()()れられることを(たし)かめることができるのです。

その上、神様の御前で楽しむことは何時(いつ)でも、どこでも出来ることです。神様は私達と(ちか)関係(かんけい)(のぞ)んでおられます。例えば、私達の祈りも聞きたいし、私達の賛美(さんび)()きたいのです。神様が、私達の愛する天の父なる神様ならば、もちろんそうですね。そうではなかったら、私達は神の子と()ばれないでしょう。どんなお父さんも自分の子供との関係(かんけい)()しいでしょう。私たちは神の子で、父なる神様の家にいつも歓迎(かんげい)されています。

John 1:12「しかし、この方(イエス様)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権(とっけん)をお与えになった。」

したがって、すでにイエス様を受け入れた人はイエス様の完全(かんぜん)生贄(いけにえ)によって自由(じゆう)(れい)によって大胆(だいたん)に神様に(ちか)づくことができるとしたら、死後天国に(はい)保証(ほしょう)があるかどうか、心配(しんぱい)不要(ふよう)なのです。

祈り

慈しみ深い天の父なる神様。あなたの名前をほめたたえます。

今日は幕屋の垂れ幕について学びました。人間の罪に汚れている状態と神様の聖さを考えるとやはりわれわれはその状態のままであなた様の御前に立つことができませんが、私達はその状態にいる必要はありません。救いへの道があるのです。イエス様の贖いの死によって私達は自由にあなた様の御前に近づくことができ、あなた様が私達を受け入れる確かめがあり、今も、死後も、心配は不要なのです。心から感謝します。私達は難しい時出会うと聖霊様によってその事実を思い出させてください。そしてその事実からくる確認と希望は私達にイエス様について周りの人に福音を伝える熱意をもたらすように私達の心の中で働いてください。そして私達の間にまだイエス様を受け入れていない方がいらしゃいましたら、どうか彼らに対するあなたの愛を知るように、助けてください。