幕屋の祭壇

ヨハネ福音書 1:29: Behold the Lamb of God who takes away the sin of the world

「その翌日(よくじつ)、ヨハネは自分(じぶん)(ほう)にイエスが()られるのを()()った。「()よ、()(つみ)を取り(のぞ)く神の子羊(こひつじ)。」

ヨハネの福音書 1章29節

The Alter of Sacrifice

祭壇の説明: 出エジプト記 27章1~8節

置き場: 40:29

祭壇(さいだん)をアカシヤ(ざい)(つく)る。その祭壇(さいだん)(なが)()キュビト、幅五(はばご)キュビトの正方形(せいほうけい)とし、(たか)さは(さん)キュビトとする。その四隅(よすみ)(うえ)(つの)(つく)る。その(つの)祭壇(さいだん)から()ているようにし、青銅(せいどう)をその祭壇(さいだん)にかぶせる。灰壺(はいつぼ)十能(じゅうのう)(はち)肉刺(にくざ)し、火皿(ひざら)(つく)る。祭壇(さいだん)用具(ようぐ)はみな青銅(せいどう)(つく)る。祭壇(さいだん)のために青銅(せいどう)網細工(あみざいく)格子(こうし)(つく)る。その(あみ)(うえ)四隅(よすみ)青銅(せいどう)(かん)四個作(よんこつく)る。その(あみ)(した)(ほう)祭壇(さいだん)()()した部分(ぶぶん)(した)()()け、これが祭壇(さいだん)(たか)さの(なか)ばに(たっ)するようにする。祭壇(さいだん)のために(ぼう)を、アカシヤ(ざい)(ぼう)(つく)り、それらに青銅(せいどう)をかぶせる。それらの(ぼう)(かん)(とお)す。祭壇(さいだん)(かつ)がれるとき、(ぼう)祭壇(さいだん)両側(りょうがわ)にあるようにする。祭壇(さいだん)は、(いた)で、(なか)空洞(くうどう)になるように(つく)る。(やま)であなたに(しめ)されたとおりに(つく)らなければならない。」

出エジプト記 27章1~8節

皆さん、おはようございます。前回の説教では全般的(ぜんぱんてき)に旧約聖書の幕屋(まくや)についてしょうかいしました。前回いなかった方のために幕屋(まくや)について(すこ)説明(せつめい)したいと思います。(むかし)イスラエル人は大変(たいへん)(たび)をしている(あいだ)、神様は彼らに(はげ)ましや、(まも)りや、(みちび)きなどをあたえようとしました。その目的(もくてき)のために神様はイスラエル人に幕屋(まくや)()てさせ、その幕屋(まくや)に神様は(あらわ)れてすむようになりました。もちろんほかの宗教(しゅうきょう)(ちが)って神様はこの住まいのような場所(ばしょ)(しば)られる(かた)ではなく、むしろこの()まいにただ(あらわ)れただけです。神様は世界(せかい)支配者(しはいしゃ)ですべてのものを創造(そうぞう)された(かた)だからです。

さて、前回(ぜんかい)全般的(ぜんぱんてき)(はなし)よりも、今回(こんかい)幕屋(まくや)内容(ないよう)の一つ一つについてもうちょっと具体的(ぐたいてき)()てみたいと思います。なぜかというと、全般的(ぜんぱんてき)幕屋(まくや)はもちろん面白(おもしろ)いですが、幕屋(まくや)内容(ないよう)はとても象徴的(しょうちょうてき)なもので(くわ)しく()ていくと色々(いろいろ)面白(おもしろ)(こと)発見(はっけん)できるからです。これを理解(りかい)するため、私たちは旧約聖書のイスラエル人であるとしましょう。荒野(あらの)で彼らはこの神様の幕屋(まくや)(まわ)りに()んでいました。幕屋はとても素敵(すてき)なもので神様もいっらしゃって、ちょっと行ってみたい気持(きも)ちになるでしょう。入ってみましょうか。初めにいろいろな色の幕屋(まくや)(もん)目当(めあ)てきます。(もん)(とお)って(つぎ)()える(もの)祭壇(さいだん)です。この祭壇(さいだん)とは一体どういう物でしょうか?ここで少しご説明(せつめい)したいと思います。

ポイント1

祭壇(さいだん)一番目(いちばんめ)目的(もくてき)(つみ)(おか)したことを人々(ひとびと)(おも)()させるという目的(もくてき)です。なぜなら神様の(いえ)(はい)りたいならば(ゆる)されていないと(わたし)たちは(はい)れないからです。

このことは西欧人(せいおうじん)より日本人(にほんじん)には()かりやすいと思います。(たと)えば(いえ)(はい)方法(ほうほう)(かんが)えてみると、(はじ)めに()場所(ばしょ)玄関(げんかん)ではないでしょうか。そして玄関(げんかん)(くつ)()必要(ひつよう)があると(わたし)たちに(おも)()させてくれないでしょうか。私たちの(くつ)(きたな)いからですね。(おな)じように神様(かみさま)幕屋(まくや)一番前(いちばんまえ)祭壇(さいだん)()きました。神様は私たちに自分(じぶん)たちは罪人(つみびと)(ゆる)されることが必要(ひつよう)だと(みと)めてほしいのです。そうしないと(はい)ることができません。

例えば私たちは(わる)いことをしてしっぱいしたり、先生(せんせい)(つま)(おっと)(おや)などに(したが)わなかったりしたら、(ゆる)される(まえ)相手(あいて)()うことはちょっと(こわ)いのではないでしょうか。神様との関係(かんけい)(おな)じです。別の(れい)をあげてみましょう。もし私たちが借金(しゃっきん)をしてしまったとしたら、()りたお(かね)(かえ)さないなら、刑務所(けいむしょ)に入ることになります。聖書によると(つみ)借金(しゃっきん)(おな)じようなもので、(つみ)代価(だいか)全部無(ぜんぶな)くすまで、自分と神様の間は平安(へいあん)になりませんし、天国(てんごく)にも(はい)れません。

ポイント2

さて、祭壇(さいだん)二番目(にばんめ)目的(もくてき)は神様は人間(にんげん)(つみ)(きら)いなのに、人間(にんげん)(あい)されたことを(あらわ)すことです。

ローマ人への手紙6:23によると「 (つみ)報酬(ほうしゅう)()です」と書いてあります。人間はこのばつを()けることができませんが、同時(どうじ)神様(かみさま)自分(じぶん)()わりに生贄(いけにえ)として子羊(こひつじ)(そな)えてくださいます。このように自分自身(じぶんじしん)神様(かみさま)にゆるされました。ここで(むかし)のいけにえの儀式(ぎしき)について説明(せつめい)したいと(おも)います。現代(げんだい)()きる私達(わたしたち)にとって、いけにえの儀式(ぎしき)()くと耳慣(みみな)れないこと、と(おも)うかもしれませんが、この習慣(しゅうかん)はとても象徴的(しょうちょうてき)です。毎回(まいかい)のいけにえの儀式(ぎしき)で、神様に(ささ)げている(ひと)自分(じぶん)()をその動物(どうぶつ)(あたま)にさわらなければなりませんでした。なぜかと言うと。その()()いている(ひと)()わりに(ばつ)()けてくれていたからです。つまり()(ばつ)です。

ところが、今述べた旧約聖書の生贄(いけにえ)(ささ)げる儀式(ぎしき)はもう必要(ひつよう)ではありません。なぜかというと、イエス様の御業(みわざ)信頼(しんらい)することを(とお)して神様(かみさま)(ゆる)されることができるからです。へブル人への手紙10:4-10にこう書いてあります。

雄牛(おうし)()やぎの()(つみ)(のぞ)くことができないからです。ですからキリストは、この世界(せかい)()てこう()われました。「あなたは、いけにえやささげ(もの)をお(もと)めにならないで、わたしに、からだを(そな)えてくださいました。全焼(ぜんしょう)のささげ(もの)(つみ)のきよめのささげ(もの)をあなたは、お(よろこ)びにはなりませんでした。そのとき、わたしは(もう)しました。『(。「)(いま)、わたしはここに()ております。巻物(まきもの)(しょ)にわたしのことが()いてあります。(かみ)よ、あなたのみこころを(おこな)うために。』」(。」」)以上(いじょう)のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ(もの)全焼(ぜんしょう)のささげ(もの)(つみ)のきよめのささげ(もの)、すなわち、律法(りっぽう)にしたがって(ささ)げられる、いろいろな(もの)(のぞ)まず、またそれらをお(よろこ)びになりませんでした」と()い、それから、「(いま)、わたしはあなたのみこころを(おこな)うために()ました」と()われました。第二(だいに)のものを()てるために、(はじ)めのものを廃止(はいし)されるのです。このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度(いちど)だけ(ささ)げられたことにより、私たちは(せい)なるものとされています。」

ヘブル人への手紙 10章4~10節

旧約聖書のいけにえとイエス様といういけにえを(くら)べると(つぎ)のように(かんが)えられます。子供(こども)時偽物(ときにせもの)のお(かね)(あそ)んだこどがあるでしょうか。このような(あそ)びは本当(ほんとう)のお(かね)価値(かち)子供(こども)たちに(おし)えるために役に()ちます。ですけど、子供たちと私たちはもちろんこの偽物(にせもの)のお(かね)(ちから)がないことを()っていますね。ただ本物(ほんもの)のお(かね)使(つか)うために(やく)()準備(じゅんび)です。したがって、旧約聖書の子羊(こひつじ)神様(かみさま)子羊(こひつじ)、つまりイエス様の()わりとして()はなぜ必要(ひつよう)かを理解(りかい)するように(わたし)たちを(たす)けてくれます。

イエス様は私たちの子羊(こひつじ)になってくださいました。祭壇(さいだん)十字架(じゅうじか)です。そこでイエス様は自分自身(じぶんじしん)神様(かみさま)生贄(いけにえ)として(ささ)げてくださいました。私たちの債務(さいむ)はイエス様に(はら)っていただきました。(のこ)っている必要(ひつよう)行動(こうどう)はただイエス様を信頼(しんらい)することなのです。

さてここで旧約聖書のいけにえとイエス様といういけにえの(ちが)いをもう(すこ)(かんが)えてみましょう。旧約聖書(きゅうやくせいしょ)のいけにえを(ささ)げる儀式(ぎしき)何度(なんど)もくりかえさなければなりませんでしたが、イエス様といういけにえは一回(いっかい)きりの行動(こうどう)でした。へブル人への手紙10:11-12にこうかいてあります。

「さらに、祭司(さいし)がみな、毎日立(まいにちた)って礼拝(れいはい)(つと)めをなし、(おな)じいけにえを()(かえ)(ささ)げても、それらは(けっ)して(つみ)(のぞ)()ることができませんが、キリストは、罪のために一つのいけにえを(ささ)げた(あと)永遠(えいえん)(かみ)(みぎ)()()き、」

ヘブル人への手紙 10章11~12節

さあ、なぜイエス様といういけにえは()(かえ)必要(ひつよう)がないのでしょうか。それについて新約聖書はいくつかの(こた)えを(しめ)しています。

  • イエス様といういけにえは完璧(かんぺき)です。へブル人への手紙9:13-14によって、動物(どうぶつ)のいけにえはただ(ひと)(からだ)(きよ)めるためですが、イエス様といういけにえは「 良心(りょうしん)」を(きよ)くする(ちから)があった、つまり内面的(ないめんてき)にも霊的(れいてき)にも(きよ)くする(ちから)があるのです。
  • へブル人への手紙10:14に書いてある通り「なぜなら、キリストは(せい)なるものとされる人々(ひとびと)を、(ひと)つのささげ(もの)によって永遠(えいえん)完成(かんせい)されたからです。」
  • 10:18によると誰かが完全(かんぜん)(ゆる)された場合(ばあい)ほかの(ささ)(もの)はもう必要(ひつよう)ないのです。
  • (さば)きは一回(いっかい)しかないから、イエス様といういけにえも一回(いっかい)十分(じゅうぶん)なのです。への手紙9:27-28「そして、人間(にんげん)には、一度死(いちどし)ぬことと死後(しご)にさばきを()けることが(さだ)まっているように、キリストも、(おお)くの(ひと)(つみ)()うために一度(いちど)自分(じぶん)をささげ、二度目(にどめ)には、(つみ)()うためでなく、ご自分(じぶん)()(のぞ)んでいる人々(ひとびと)(すく)いのために(あらわ)れてくださいます。」キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます」

まとめ

ところが、一つの質問(しつもん)(のこ)っています。それはイエス様は世界(せかい)のためにいけにえとして自分自身(じぶんじしん)(ささ)げてくださったなら、すべての人が( すく)われているのではないでしょうか。いいえ、(ちが)います。(ゆる)された(もの)()(あらた)めた(ひと)、つまりイエス様を信頼(しんらい)して()()れたという(ひと)なのです。この(てん)についても幕屋(まくや)(あき)らかに(あらわ)してくれます。旧約聖書(きゅうやくせいしょ)立法(りっぽう)によって、(だれ)かが(おう)(おこ)らせたり、(あやま)って(ひと)(ころ)してしまった場合(ばあい)祭壇(さいだん)()げて祭壇(さいだん)(つの)(つか)まっていると安全(あんぜん)となります。祭壇(さいだん)(つの)はこのように()えます:

ですけれども、祭壇(さいだん)(つの)(つか)まらないとしたら、処刑(しょけい)になる可能性(かのうせい)がありました。列王記第一(れつおうきだいいち):1章1-53節にこの立法(りっぽう)について(はなし)があります。(むかし)のイスラエルでダビデは王様(おうさま)でありました。ダビデが(とし)()って(からだ)(よわ)くなったのでダビデの長男(ちょうなん)アドニヤがダビデの意思(いし)(はん)して自分(じぶん)王様(おうさま)宣言(せんげん)しました。アドニヤは()(のこ)っている長男(ちょうなん)当然(とうぜん)(つぎ)王様(おうさま)になる権利(けんり)がありました。ですがダビデ(おう)(べつ)息子(むすこ)ソロモンを(つぎ)王様(おうさま)にしたいと(ねが)いました。この場面(ばめん)でダビデ王はアドニヤのずるい行動(こうどう)()いて(かれ)本当(ほんとう)王座(おうざ)()がる(まえ)にソロモンを王様(おうさま)にさせました。アドニヤはこのことに()づいた(とき)におそれて、しんでんに()()して、祭壇(さいだん)(つの)(つか)まりました。アドニヤの行動(こうどう)によって彼はソロモン王に許されました。

現代(げんだい)われわれはアドニヤとそんなに(ちが)わないと思います。本当(ほんとう)世界(せかい)王様(おうさま)であるイエス様を信じることを(おこた)り、自分(じぶん)人生(じんせい)王様(おうさま)でいたいと思うことがよくあると思います。例えば、何をやっても良いという態度(たいど)欲求(よっきゅう)善悪(ぜんあく)(なに)かを自分(じぶん)()めたい、というような事などです。そこで(かな)しいながら、(ねが)った結果(けっか)より(ぎゃく)人生(じんせい)色々(いろいろ)()くない影響(えいきょう)があります。その(うえ)この状況(じょうきょう)のままで()ぬと神様はこの()(つみ)(さば)(とき)に、神様(かみさま)意思(いし)とは(ぎゃく)(すく)われない、(さば)かれる(こと)になってしまいます。神様は愛であり、正しく、()完全(かんぜん)(おこな)わなければならないので、最後(さいご)にこの()不正(ふせい)全部正(ぜんぶただ)しくしなければなりません。

さあ、正しい行動とは何でしょうか。それは祭壇(さいだん)(つの)()()すということです。つまりイエス様に()()してください、そうすると神様が(ねが)っている、恵溢(めぐみあふ)れる人生(じんせい)()ごすことになり、そればかりか、神様の(めぐ)みは永遠(えいえん)(つづ)(もの)であり、(さば)くことに(おそ)れる必要(ひつよう)もない、永遠(えいえん)(いのち)平安(へいあん)()つことになります。