神様の住まい
聖書箇所
出エジプト記 25:8-9 「彼らに私のための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあたなに示す型と全く同じように造らなければなりません。」
Description of the Tabernacle: 出エジプト記26:1-37 (幕屋の説明)
皆さん、おはようございます。今日の説教の話題は旧約聖書の出エジプト記 25:8での幕屋についてということです。幕屋のことをあまり知らない方もいらっしゃるかもしれません。ですがこの幕屋の話をとおして、神様の性格や、罪の重要さやダメージ、許しの道と神様との交わりなど、このようなことを理解することができます。なぜかというとへブル人への手紙によると、幕屋は「天にあるものの写しと影」というものだからです。これは幕屋の一つの目的ですが、もう一つの目的があります。この二番目の目的についてもへブル人への手紙は述べています。へブル人への手紙10:1には「来るべき良きものの影」と書いてあります。
この来るべき良きものの影とはメシアのことで、世界の救い主であるイエス様ということなのです。イエス様の人生、死とよみがえりの後生きている私たちは歴史を顧みることができますので、幕屋の祭祀の働きと幕屋の象徴的な役割、それと照らし合わせてイエス様の御業を比べることができます。そうするとイエス様について持っている、いろいろな質問の答えを発見します。たとえば、なぜイエス様はそのような生活をおくったか、なぜイエス様の死は必要だったか、なぜ彼のよみがえりはそんなに必要なのかという質問に答えを発見できます。
Introduction
しかし、聖書にある幕屋を勉強するまえに、その話の歴史的背景が分からなければこのような話は分かりにくいかもしれません。そこで出エジプトのストーリーの概要を見てみたいと思います。
聖書2巻目の出エジプト記は神様の民イスラエル人の歴史の中の一部分を記録しています。この本はイスラエル人が飢饉のせいでエジプトに着いたあと、エジプトの王であるファラオにどれいとして大変な生活をさせられたことから始まります。さて、神様がイスラエル人を解放されるためにモーセというイスラエル人の一人を選ばれました。モーセの仕事はイスラエル人が解放されるようにファラオに神様の願いと注意を伝え、ファラオとエジプト人にいろいろな印を示すことでした。ファラオとエジプト人の心は硬くてイスラエル人を解放してくれなかったので、神様は10の災いを送られました。結局ファラオがイスラエル人を開放して、そしてイスラエル人は神様に約束の地に導きかれました。その旅の間にこの幕屋の話があるのです。
その約束の地に着く前、イスラエル人は荒野で生活していた時にはそれぞれのテントにすみました。このような状況を見てみると、今ヨーロッパで起こっている移民と似ていないでしょうか。自由といい生活を探すため多くの人々が危ない旅をしています。ちょっと個人的な話ですが、私はこの間のイギリスでの休暇でスポーツ講習に参加しました。私のクラスの中でイギリスについたばかりの一人のアフガニスタン人がいました。ある日彼は片言英語で私に彼のストーリーを話してくれました。彼は16歳ごろ一人で国から逃げてきて、いくつかの国をわたったということです。たまに食事としてただビスケットしか食べられませんでした。私はとても同情させられました。今ニュースでこのような危ない旅の間に多くの人々がなくなってしまうということを報道しています。私の友達はラッキーな人々の一人ですね。
聖書のイスラエル人にとってもいろいろな危険があって食べ物の問題もありました。ですがイスラエル人は神様に深く愛されたので、イスラエル人が神様と共にいることがわかるように神様はご自分のため幕屋を作るように言われました。神様の幕屋は中心に立てられて、イスラエル人の幕屋はその周りにありました。そして、イスラエル人はこの危ない状況の中でも神様の守り、導きに祝福されていました。
さて、神様は、その時代ばかりでなく現代もそうです。神様は私たちに対しても、このような心を持っておられます。よく使っている表現ですが、人生は旅であるという言葉はごぞんじでしょうか。この人生の旅の途中でいろいろなことにあって乗り越えなければならないことがいっぱいあると思います。ですけれども、おそれないでください、神様は私たちと共にいることを望んでおられます。クリスチャンであるならば、神様はイスラエル人のときと同じようにあなたと共にいらしゃっいます。まだ信仰をもっていないひとにたいしても、これは神様が望んでいることなのです。
The link to Jesus 幕屋とイエス様との繋がり
さて、この話はどのようにイエス様とつながっているでしょうか。歴史を振り返ると神様は様々なお住まいに住んでおられました。出エジプト記の幕屋、ソロモンに造られた神殿、イエス様の時代の神殿などです。もちろんほかの宗教と違って神様はこのいくつかの住まいのような場所に縛られる方ではなく、むしろこの住まいにただ現れた訳です。神様は世界の支配者ですべてのものを創造された方だからです。さて、イエス様はこの世での奉仕で何回もこの神殿に通って人々に教えられました。ある時イエス様はエルサレムの神殿でお怒りになり正しくない行動をしていた人たちを神殿から、おい出しました。なぜかというと、この聖書の箇所でイエス様はこの神殿を「父の家」と言われました。つまり、神様の家なのです。だからイエス様は人々に神様の家を汚されたくなかったのです。
一方ヨハネの福音書14:2節でもイエス様は天国を「父の家」と言われました。このように出エジプトでの幕屋は天国について考えることを助けてくれます。どのうようにと言うと幕屋の色と清さなどをとおして天国の美しさや清さを理解するように助けてくれます。この人生が終わった時神様は私たちを神様の家に連れて行きたいとのぞんでおられます。けれどもイエス様はエルサレムの宮での出来事と同じように誰にも神様の家を汚されたくありません。黙示録21章27節をとおしてこう忠告されています。
「しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである」
ですから、清いものしか入れません。つまり神様に許されたものしか入れません。許された者ってどういう意味でしょうか。どのようにゆるされるようになるでしょうか。さて聖書によると人間はみなこの人生の歩みで罪を犯してしまいます。罪は法を犯すことに限らず、小さい噓でも「罪」と聖書は呼んでいます。この罪のせいで私たちはきよくなくなってしまいます。残念ながら自分を清くする方法はありません。特別な行動や水など、力もなく人間の知恵で神様のそばに辿り着けたためしなど一度もありません。そこでどうすればいいでしょうか。この問題に答えるために進めましょう。
Jesus Dwells in our heartsイエス様/神様さまはクリスチャンの心に住んでおられます
新約聖書によると、イエス様の時から神様は神殿や人間が作ったものに住んでいるのではありませんActs 7:48-50。むしろ、神様を信頼している人たちの心に住んでいます。ヨハネ福音書14:23節にこれがかいてあります
「イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
私が4歳か5歳ぐらいの時、寝る前に母親はこの必要なことを伝えてくれました。そこで、私は私の心に神様にきてほしかったので、初めに私が犯してしまった罪のために神様に謝って、次に私の心に神様を誘いました。聖書はこの行動を「悔い改める」と言います。悔い改めることで私たちは神様に許され、清くなり、この人生が終わった時に恐れもない、天国で神様が用意してくだっさた部屋にすむことになるはずなのです。
さらに、神様は幕屋でイスラエル人と共にいたのと同じようにその日から神様は私と共にいることになりました。イスラエル人には旅で色々なことがありました。いいこともあったけど、危険や大変なこともありました。このように私たちの人生も予測不能なものではないでしょうか。ですが、神様を信じる者にっとては神様はずっと一緒にいてくださり、そばに歩んで導いてくださっています。このように人生を過ごすことを神様は望んでおられます。
ですけれども神様は私たちの心に強制的には入って来ません。自分自身の心のドアーを開けるのは私たちの責任なのです。黙示録3:20にこうかいてあります
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
神様に私の人生の中心にいてくださいと言わないならば、神様は入ってきません。
Jesus dwells in the midst of us when we gather 集まりの重要さ
最後に、もう一つの大切な真実ですが、マタイの福音書18:20節にあるように、イエス様の御名にあって集まるならば、神様もいるということです。お読みします 「二人か三人が私の名においてあつまっているところには、わたしもその中にいるのです」。したがって、クリスチャンとして、ほかのクリスチャンの兄弟姉妹と集まることが必要です。自分の教会の方でも、ほかの教会の方でも、クリスチャンの交わりは非常に重要なことなのです。そうすれば神様は私たちの間にいると約束してくれます。さらにこの状況で神様は働いてくださいます。
したがって、新約聖書の時代でも、現代にもクリスチャンを集められない状況が起こってしまっています。へブル人への手紙10:25はこのような状況に忠告しています。新約聖書の時代になぜ人が集められなかったかは分からないですが、現代を考えればいくつかの理由が考えられます。例をあげれば、コロナのせいでオンライン教会があるから、行かなくても良いという考えが広がっています。もちろん、ほかの方法がない場合は、問題ではないですが、はっきりしない理由、例えば「便利」という理由として出席していないならば、実際に教会まであしをはこぶことより、益は少なくなってしまいます。なぜかというと、イエス様が約束したことを経験しないでしょう。この状況での祝福や神様の働きを逃すでしょう。クリスチャンが集まることはクリスチャンに益になることなので、神様は集まることをねがっています。
まとめ
まとめです。旧約聖書の幕屋と新約聖書のしんでんとイエス様を見れば神様は遠くから私たちを漫然に見ているのではなく、むしろ近くにおられて、導きや、守りなど、このことを与えたいということが分かります。この真実は昔のイスラエル人にたいしてそうだったし、現代の私たちにもそうです。神様は個人的な関係がほしいと言えます。それは私たちにとって良い知らせですが、この人生が終わってもこの真実は希望を与え続けてくれます。
黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」