香りの祭壇
へブル人への手紙7:25
したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
皆さんおはようございます。唐突ですが皆さんは誰かを愛したことがありますか。お母さんや父さん、友達や恋人など、人間として誰かを愛することは当然ですね。そして愛している相手と話したいのではないでしょうか。例えば、最近自分がやった事や考えや未来にの望み、または相手のアドバイスを聞きたいことなどについて分かち合うことがあるでしょうか。同じように神様は私たちのことを聞きたいと聖書に書いてあります。クリスチャンにとって神様と話すことは祈りです。そこで今日の説教の話題は香りの祭壇と祈りです。
今日の説教でいくつかの質問に答えたいと思います。それは
- イエス様は今どこにいるのか、そして何をされているのか?
- イエス様は天に戻って行ったのはなぜでしょうか?
- 私達の救いの保証はどうやってしるでしょうか?
- 神様は私達の祈りを本当に聞いてくださるでしょうか?
これらの質問に答えるために旧約聖書の幕屋を見て見れば答えは明確になります。ですが幕屋のことをあまり知らない方もいらっしゃるかもしれませんので幕屋とその内容をちょっと紹介したいと思います。
旧約聖書の幕屋と言えばとても古い時代のお話なので、現代のキリスト教と関係ないと思うかもしれませんが、幕屋の話をとおして、神様の性格や、罪の重要さやダメージ、救いの道と神様との交わりなど、このようなことを理解することができます。なぜかというとへブル人への手紙によると、幕屋は「天にあるものの写しと影」というものだからです。これは幕屋の一つの目的ですが、もう一つの目的があります。この二番目の目的についてもへブル人への手紙は述べています。へブル人への手紙10:1節には「来るべき良きものの影」と書いてあります。
この来るべき良きものの影とはメシアのことで、世界の救い主であるイエス様ということなのです。イエス様の人生、死とよみがえりの後生きている私たちは歴史を顧みることができますので、幕屋の祭祀の働きと幕屋の象徴的な役割、それと照らし合わせてイエス様の御業を比べることができます。そうするとイエス様について持っている、いろいろな質問の答えを発見します。たとえば、なぜイエス様はそのような生活をおくったか、なぜイエス様の死は必要だったか、なぜ彼のよみがえりはそんなに必要なのか、なぜ天にもどらなければならなかったか、という質問の答えを発見できます。
Introduction
しかし、聖書にある幕屋を勉強するまえに、その話の歴史的背景が分からなければこのような話は分かりにくいかもしれません。そこで出エジプトのストーリーの概要を見てみたいと思います。
聖書2巻目の出エジプト記は神様の民イスラエル人の歴史の中の一部分を記録しています。この本はイスラエル人が飢饉のせいでエジプトに着いたあと、エジプトの王であるファラオにどれいとして大変な生活をさせられたことから始まります。さて、神様がイスラエル人を解放されるためにモーセというイスラエル人の一人を選ばれました。モーセの仕事はイスラエル人が解放されるようにファラオに神様の願いと注意を伝え、ファラオとエジプト人にいろいろな印を示すことでした。ファラオとエジプト人の心は硬くてイスラエル人を解放してくれなかったので、神様は10の災いを送られました。結局ファラオがイスラエル人を開放して、そしてイスラエル人は神様に約束の地に導きかれました。その旅の間にこの幕屋の話があるのです。そしてその大変な旅をしている間、神様は彼らに励ましや、守りや、導きなどをあたえようとしました。その目的のために神様はイスラエル人に幕屋を建てさせ、その幕屋に神様は現れてすむようになりました。もちろんほかの宗教と違って神様はこの住まいのような場所に縛られる方ではなく、むしろこの住まいにただ現れただけです。
さて、全般的に幕屋はもちろん面白いですが、幕屋の内容はとても象徴的なもので詳しく見ていくと色々な面白い事を発見できます。幕屋は三つの部分で成り立っています。それは中庭、聖所そして至聖所という部分です。順番にこの三つのパーツをまとめてみましょう。中庭に祭壇と洗盤が置いてありました。(モデルを指します)
中庭
- 祭壇
祭壇は血によって人の罪を清めるため備えられました。当時この儀式はいけにえを捧げることをとおして人々は清められました。当時に繰り返さなければならない儀式でした。現在キリスト教ではこれはもう必要ありません。なぜかというと、イエス様の御業を信頼することを通して神様に許されることができるからです。へブル人への手紙10:4と10節にこう書いてあります。
4節「雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。」
10節「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」
簡単に言うと祭壇とはイエス様の十字架の上での御業を指しています
- 洗盤
そして洗盤は水瓶みたいなもので水によって人を聖なるものとし、清めるため備えられました。旧約聖書で祭司は祭司になる前に体全体を洗って清めましたが、そのあとも奉仕の度に手と足を洗わなければなりませんでした。現在ですが私たちは回心した時に昔の祭司のように体全体が聖霊様によって洗われて清められましたが、毎日足を洗う必要はまだあります。それは具体的にどういうことかというと、それは聖霊様によって、自分の人生において神様の御言葉に応じるということなのです。
簡単に言うと洗盤とは聖霊様の働きを指しています。それは幕屋の中庭に置いてある物の目的でした。
聖所
さて今日の中心である香りの祭壇という物は聖所という場所に置いてありました。聖所の中の物は神様をもっと深く経験するための方法として備えられました。
至聖所
第三番目の部分は至聖所です。これは聖所の中の一つの部屋ですが、とりあえず簡単に説明すると、ここは神様の王座でした。
したがって、この幕屋の内容を順番に見てみると、面白いことに気づきます。それは神様の御業の歴史的な順序です。つまり
- 祭壇はイエス様の十字架の上での御業
- 洗盤は聖霊降臨祭、つまりペンテコステにイエス様が聖霊様を送られた出来事です。
- そして香りの祭壇は、私達のため今果たしてくださっているイエス様の奉仕を表しています。
さ、幕屋の概要を見るのは終わります。一息つきましょう。
Main Subject:Alter of Incense
Background
さて、次に香りの祭壇を見てみましょう
この幕屋の香りの祭壇の目的は、イスラエル人が聖所の外で祈る時に、祭司がその代表として香りを捧げたという物でした。なぜなら一般の人たちは罪人であって自分の清さで神様に祈りを捧げられないと思われていたからです。ですから、祭司は人々の祈りと同時に甘い香りを捧げることをとおして神様まで無事に祈りが届くようにこの儀式を行いました。
さて、イスラエル人はいつでも祈れましたが、イスラエル人のために祈る奉仕があった特別な祭司がいました。この祭司はほかの祭司と違います。特別な仕事があったから、 大祭司 と呼ばれました。神様の御前にイスラエル人の代表として、香りの祭壇でイスラエル人のために祈りました。この奉仕を行う時に特別な胸当てを着るのですが、この胸当てに12個の宝石が付けられていました。この12個の宝石の意味はイスラエルの12部族を表しています。したがって大祭司は胸当によって自分の心の中に12部族を覚え神様の御前にその12部族と共に進み出ました。
Meaning for today
現代の私たちも昔のイスラエル人と違っていません。人間として同じように生きていて、罪を犯してしまい、自分の功績で自分の祈りに答えを期待することができません。ですけれども、祈りを捧げるために祭司が香りをたく必要は私たちにはなくなりました。現代の私たちは、イエス様がヨハネ福音書16:23-24で教えられたように、イエス様の御名において祈れば、私達じゃなくてイエス様の功績でその祈りは無事に神様まで届き、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。ヨハネ福音書16:23-24を読みます。
[ヨハネの福音書 16:23,24]
その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。
さて大祭司に関しては、この人の特別な奉仕は今もう必要ですが、現代の大祭司はこの世にいる朽ちる人間ではありません。私達の大祭司はイエス様です。へブル人への手紙7:23-24をお読みします。
へブル人への手紙 7:23,24]
「また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、
イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます」。
イエス様は死に限られない神様のひとり子なのです。だからこそ、へブル人への手紙7:25―28節で書いてある通りに
「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。
律法は、弱さを持つ人間たちを大祭司に立てますが、律法の後から来た誓いのみことばは、永遠に完全な者とされた御子を立てるのです。」
イエス様は神様で、あらゆる面で完璧ですが同時に人間です。したがって私達と同じようにイエス様はこの世で生まれ、普通の生活を暮らして、あらゆる点で誘惑されましたが、誘惑に負けませんでした。というわけでイエス様は誘惑されることをよくわかってくれるし、哀れみ深く、私達に対して同情できるのです。これによって大胆に祈りを持ってイエス様に近づくことができます。
The purpose of Jesus’ intercession for us
さて、私達のためのイエス様の取り成しの目的は何でしょうか。二つの目的があります。
第一番目は私達が信仰を保って、壊れることがない、私達のイエスキリストにある神の愛から私達を引き離すことができないようにイエス様はとりなしてくださいます。忘れないで下さい、私達の敵である悪魔がほえたける獅子のように誰かを食いつくそうと探し回っています。弟子のペテロのためのイエス様の祈りを覚えているでしょうか。ルカの福音書22:31
「見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」
この箇所ではペテロがイエス様を「知らない」と言った時に関する話です。その時にペテロは誘惑にまけましたが、彼の信仰は失われなかったのです。なぜなら、イエス様がペテロのために祈ったからです。この事実によって励まされるでしょう。イエス様は今も生きおられて、私達のために祈ってくれます。私達はイエス様をわすれるとしても、イエス様は私達のことを忘れません。愛してくれる友人のように私達のことを覚えてくださいます。
第二番目は私達が罪に落ちた時に、神様が私達を拒否しないようにイエス様は弁護人としてとりなしくださることです。
例えば、法廷で、ある弁護人は被告人のために弁護するとしましょう。地上の弁護人は彼の弁護依頼人の違反の重さを軽減するために出来るだけ弁解をします。ですがイエス様はそうしません。地上の弁護人と違ってイエス様は私達の罪を軽減しません。そしてイエス様は私達の功績を神様に伝える必要はありません。なぜかというと、神様に許される基準は私達の功績ではなく、イエスキリストの生贄は私達の許しの基準だからです。
この故に、自分はどんなに酷い罪を犯しても、どんなに恥を感じても、あなたは神様に決して見捨てられることはありません。そう思えない時は神様からの考えではありません。覚えてください、自分の過去の罪、現在の罪、将来の罪もイエス様がこれら全部の罪を十字架で担いました。あなたの罪で絶望する誘惑が来る時に、十字架の上のイエス様に目を向けてください。私達の主の最後の言葉を思い出してください。「完了した」。
Application
Non believer
さて私達にたいしてこれらの事実はどんな意味があるのでしょうか。まず、イエス様を自分の心にまだ受け入れていないならば、残念ながら、神様に祈っても自分の祈りは聞かれません。なぜかというと、自分と神様の間に壁がまだあるからです。この壁を壊す方法は一つしかありません。つまりあなたのためのイエス様の十字架の上での御業を信頼して、悔い改めることを通してということなのです。そうするとイエス様の功績によって神様に認められるようになるのです。それゆえ神様の御前に大胆に近付き、祈ることができるようになります。
したがって神様が聞いてくださる祈りは「悔い改め」の祈りです。そのような祈りは、以前は外から覗き込むことしかできなかった、天国の門を、開く力があるでしょう。そのような祈りを通して、救いを持って清められ、神様と深い交わりができるのです。
Believer
さて、信者であれば私達はどこでも、どんな時でも、必要がある時に直接にイエス様に近付くことができ、更に哀れみ、恵を見つけるはずなのです。
へブル人への手紙4:16
「ですから、私達は、哀れみを受け、また恵をいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
それゆえイエス様が私達のためにとりなして下さっていることを通して、救いの保証があるのです。どんなに酷い罪を犯してしまってもイエス様の生贄は十分です。イエス様のとりなしによって私達は神様に認められています。
最後にイエス様はなぜ天国に戻って行ったのかという問いについて考えたいと思います。皆さんは、イエス様がまだこの世に残っていたほうが良いと考えことがあるでしょうか。私はこの質問について良く考えましたが、いくつかの理由がありますが、イエス様の大祭司としての奉仕によって一つの答えを発見できます。へブル人への手紙10:12-13はこう書いてあります
「キリストは罪のために一つのいけにえを捧げた後、永遠に神の右の座に着き、後は敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。」
この箇所は詩篇110編:1節でのイエス様についての予言です。マタイの福音書22:41-46でイエス様ご自身が彼の人生と奉仕にこの箇所を当てはめました。イエス様が天国に戻って神の右に座るのが昔から神様のご計画です。イエス様が天に戻って、この世に聖霊様を送るのは神様が決めたミッションの方法であるのです。そしてイエス様が天国に戻らなかったとしたらこの旧約聖書の予言はなしとげられないようになってしまい、イエス様の言葉も虚しくなります。
このように旧約聖書の幕屋をとおして神様とどのように関係づけるのかという計画は今日でも有効です。この計画は神様の選ばれた方法であり、天にあるものの写しと影で神様を理解するために助けになるものです。神様は自分の方法に縛られていないですが、神様を深く知ることができるように私達のためにその方法を守っておられます。
祈り
愛する天の父なる神様、あなたの名前をほめたたえます。今日私達は初めて聞いたこと沢山あるかもしれませんがどうか、私達がその中で私達一人一人にとって大事なことを覚えるように助けてください。そして私たちの人生の中でこの教えは影響があるように聖霊様によって働いてください。たまに旧約聖書のことは古臭いことだと思ってしまいますが、実はそうでなく、とても大事なものです。私達は旧約聖書の難しいところを理解したい、勉強したい心をあたえてください。それによって私達の信仰とあなたへの愛を深めるようにお願いします。
イエス様の功績をとおして私達は神様に許され、愛され、神の子として認められています。心から感謝します。このことを受けるのは私達の功績をとおしてであるとしたら、私達はもう負けたはずです。あなたの哀れみを心から感謝します。
イエス様の名前で祈ります。アーメン。