神の御手の中で

よく街の中で耳にする言葉に、「本当にそうかなあ?」って思うことが時々あります。「俺の力だけで出世したんだ!」とか「最後は自分の力しか信じられないよ!」って色んな人がさまざまな場面で話しています。いわゆる、「武勇伝」ってものです。僕の経験上、運とか縁とかの方がそのような言葉よりはなんだか共感できます。どんなに必死に努力しても、報われない時が人生にはあるように、自分の力の限界があるように思えるのです。聖書の中には、そんな主人公が山のように出てきます。大抵の場合は、最後に神さまの力で救われ、助けられる場合が多いのですが。

 僕もついこの間まで、自分の力、自分の見たり、経験したことしか信じていませんでした。それを職場の後輩や友達によく話していたものです。けれども、いきなり巨大な壁が目の前に立ちはだかる時に僕はその壁を乗り越えることはできませんでした。何度も必死に食らいつき、アタックしても、結果はついて来ませんでした。壁は僕を完全に覆い、ただ途方に暮れていた時期もありました。結果、やけになりお酒に頼り、借金をしてまでも飲みに通ったこともあります。

 そんな時、ある友人が、教会のクリスマスのイベントに僕を誘ってくれました。正直、宗教に頼るのは弱い人間のすることだと思っていた自分がそこにはいました。半信半疑でイベントに参加し、温かく迎入れてもらって、心にジーンと来るものがありました。そこで短い聖書のメッセージタイムがあり、どんな時にも神さまがそばで自分を見て下さっていること。神さまの手の上に自分の人生があること。つらい時には神さまに頼っていいこと。

 人前では弱音を漏らしたくない僕は自分のアパートに帰ってから、自分一人で抱え込まなくてもいいのかなって思い始めました。心の中で「神さま、本当にいるのであれば、助けて下さい。」って祈っていました。そこにはプライドや武勇伝はありませんでした。ただ弱く、小さな自分がいただけでした。

 心が砕かれたものは救われると聖書では繰り返し書かれています。僕は、今は同じ神さまを信じている教会のメンバーに助けられての毎日を過ごしています。もうお酒はやめました。逃げ道はお酒にはなく、今は神さまの作ってくれた道に、本当に助けられたのだと思って暮らしています。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方(神様)がこう仰せられる。「わたしは、高く聖なるところに住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」(聖書)

これはいずみ教会の1人による証です。