2024年8月11日(日)八尋先生メッセージ(テキスト)
ヨハネの福音書15章1~27節
「良い実を結ぶ人生の条件」―主イエスを愛し、御言に留まり、その弟子となり続ける―
札幌聖書キリスト教会隠退牧師 八尋 勝
序1、ヨハネの福音書が書かれた時の時代背景
(1)起源90年頃、主イエスの弟子ヨハネが晩年に執筆(ヨハネ21:24)。
(2)ヨハネの福音書が書かれた背景には、
①マタイ、マルコ、ルカによる3つの福音書(共観福音書)が記されたのち主イエスの仮現論(仮現説とも。神の御子、主イエスの受肉、受難を否定し、十字架で死なれたのは別人物とする、間違った教え。)が起こり、その誤りを正す神学的理由があった。
②(もう一つの理由⇒)教会は紀元300年代にキリスト教がローマ帝国に公認されるまで迫害化にあり、殉教者、棄教者が続いていた時代(黙3:8他)であった。キリスト教会は誕生して50,60年が経ち、地域教会の中には外面だけのキリスト者たちもいた。
それゆえ、『ヨハネの福音書』の数年後に書かれた『ヨハネの黙示録』2,3章の7つの教会には、称賛のみ記されているフィラデルフィアの教会を除き、エペソ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、スミルナの5つの教会には称賛だけではなく責めも。ラオディキアの教会へは叱責と、悔い改めの勧告のみ。上記の状況下で、ヨハネは、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの3福音書)に書かれていない主イエスの御言、<わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。>(ヨハネ15:1)ほかを伝えて、諸教会を励ましたのでした。(『新聖書注解(新約1)』村瀬俊夫、いのちのことば社1973年他参考。)
序2、今朝のヨハネ15章は、主イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに語られた、比喩(ひゆ/たとえ)を用いた教え。
(1)ぶどう園の<農夫>にたとえられた天の御父は、生まれながらの罪びとであり、滅びるばかりであった私たちが、神に対する自らの罪を認めて、悔い改め(方向転換し)、十字架と復活の、神の御子イエス・キリストを<主>と信じる信仰によって、(ヨハネ3:16.ローマ6:1-11他)⇒聖霊はその人を新しく生まれさせ(ヨハネ3:3,16他)、主イエスと生命的に結び合わせてくださる。(ローマ8:9-11.ガラテア2:20他)
(2)その生命的結合は、三位一体の三位格である<聖霊>が、キリスト者の内に宿ることによってなされる(Ⅰコリント6:19他)。それにより、その人は霊的・実際的な実を結び、キリストの教会の究極的目的である<神の栄光>(Ⅰコリント6:19,20)を現し、神を永遠に喜ぶ恵みを受ける。 (3)主イエスは上記した一連の霊的・実際的真理を、ぶどうの木の比喩(たとえ)を用いて教えておられるのです。
序3、ヨハネ15章1-27節の区分と内容。
(1)15:1-11<わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。>(1節)主イエスと御父、そして、主イエスの弟子(キリスト者)たちとの関係。
御言と聖霊の働きによって、神に対する罪の悔い改め(方向転換)と、神の御子イエスを救い主と信仰告白した者は、義認すなわち神との正しい関係を認められ、聖霊によって新生し、永遠の命が与えられ、主イエスの(聖なる公同の)教会に連なり、豊かな実を結ぶ。主イエスの弟子(キリスト者)は天の御父によって、主イエスと霊的声生命で結び合わされ、恵みを受ける。(受けている。)
【注】その条件として、この15:1-11では、<とどまる>が強調されている。(ギリシャ語原文では9回強調。新改訳2017では11回訳出。)
【注】これは「接ぎ木」ではなく、生命的な結合を教えているのです。
(2)15:12-17主イエスの出来(キリスト者)たちの相互関係。
<わたしの愛に留まりなさい>(9,10節)。そして<わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。>(12節、そして17節にも)
【注】この15:9-19では、ギリシャ語原文の<アガペー>(愛)を(ギリシャ語原文では、名詞、動詞を合わせて、9節で2回、10節で2回、12節で2回、13節で1回、17節で1回、8回強調。主イエスへの愛<アガペー>(愛)こそが動機であり、目的でもある。『新改訳2017』版では、計11回訳出 。
(3)15:18-27主イエスの弟子(キリスト者)と<世>の関係。
<世>は、主イエスの弟子(キリスト者)を<憎み>(18節)、<迫害>(20,23,24,25節)する。しかしキリスト者それぞれに与えられている“召し(召命)”(ローマ11:29他)と“賜物”(与えられた能力)(ローマ12:3-8.Ⅰコリント12章.エペソ4:11,12他)によって、主イエスの良い証し人として、<多くの実を結び>(8,9節)、人生の究極の目的である、神の<栄光>(8節)を現し、神を永遠に喜ぶ人生を全うすることができる。主イエスはこれらを、弟子たち(こんにちのキリスト者である、あなたや、私たちにも)期待しておられるのです。
序4、ヨハネ15章で、繰り返し強調されている語句は、<とどまる>(4,5,6,7,9,10節)、<愛し合う>(9,10,12節)、<実を結び>(2,4,5,8,16節)です。これらに留意して、学びを進めましょう。
【注】ガラテヤ5:22,23で教える<御霊の実>(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)は広い意味ではヨハネ15章の<実>に含まれます。しかし、このヨハネ15章では、具体的な、<御霊の実>が何であるのかではなく、実を結ぶための由一絶対の条件を教えているのです。
【本論Ⅰ】御父による、主イエスと(その弟子である私たちとの)霊的生命の結合の始まり。
Ⅰ-1、上記した序2-(1),(2)の確認を。
すなわち、どのようにして、主イエス・キリストに結び合わされる恵みに与ることができるのか。(そのためには、具体的な事例紹介が、理解の助けになるでしょう。しかしプライバシーの問題もありますので、小生のケースを紹介させていただきます。申すまでもなく、これは1つの事例であり、主イエスの救いに導かれる方法は多様です。)
小生の場合は、今から60年前、22歳の時、(1)(大学の通信教育で学びながら、国内外航路で海上勤務を続けていた頃、船舶職員の国家試験を受験するために上陸し、)経済的必要の為に一時期(3年と8ヶ月間)勤務した会社の(五十嵐健治会長/キリスト者)から、初めて主イエス・キリストの福音をお聞きし、(2)続いて、勤務の関係でお会いした、アメリカ人宣教師(TEAM/ゼ・エバンゼリカル・アライアンス・ミッション)の宣教師御夫妻の御宅に招かれ、(3)(その宣教師宅での、夕食後の家庭礼拝において、)聖書の御言(ローマ3:9-18.10:9,10他)を読み、神に対する自己の罪を示されて悔い改め(すなわち、これまでの生き方を方向転換し)、イエス・キリストへの信仰告白へ(ローマ10:9,10他)。(4)その時の、最初の祈りは、(のちに、伝道団体である)「総動員伝道」が発行した小冊子、『大いなる救い』に記載されていた、祈りの参考例とほぼ同じ内容です。⇒「神様、わたしはつみびとです。自分で自分を救うことはできません。今、私の罪の身代わりとして十字架にかかり、三日目に蘇ってくださったイエス・キリストを。わたしの救い主、また主として心に迎えます。私のすべての罪を赦し、新しい豊かないのちに歩ませてください。これから罪を捨て、キリストに痛がっていきます、キリストの御名によって祈ります。アーメン。」(『アーメン』とは神である主への、同意・賛意を表す、厳粛な言葉。)このように、神に対する自分の罪を認め、イエス・キリストを主と信じてお従いし、生きることができるようにと、祈りを。その時から霊的な意味で、<まことのぶどうの木>(ヨハネ15:1)である主イエスの枝として結ばれ、聖書の御言の約束と惠を経験させていただいて参りました。Ⅰ-2.このヨハネ15章の、<まことのぶどうの木>のたとえは、生命の結合と、それぞれの働き(役割)を分かりやすく、教えています。⇒<イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところへ来て、その人とともに住みます。>(ヨハネ14:23)
【本論Ⅱ】御父による、主イエスと(その弟子である私たちと)の生命的結合の営み。
⇒上記序3の(2)を確認してください)主イエスが、(ヨハネ15章1-17節で)幾度も繰り返し命じておられる主イエスの御言は⇒<わたしにとどまりなさい。>(ヨハネ15:4、5,6,7,9,10)
その理由(消極面)は、主イエスへの信仰にとどまらせまいとする、霊的・実際的な誘惑、戦いがあるゆえ。(主イエスが、このヨハネ15章を語られた時は、イスカリオテのユダを除く、11弟子。)
その積極面は、
Ⅱ-1.ヨハネの福音書15章の中心的教えは、主イエスの弟子としてとどまり続けて、うち・そとに、良い実を結ぶために。そのための必須条件は、ぶどうの木と枝の関係のように、生命的に結合され続けること。すなわち、<まことのぶどうの木>の教えは、(上記、本論Ⅰの通り)父なる神に対する自己の罪の悔い改め(方向転換)と、十字架の復活の、神の御子、主イエスへの信仰告白によって、主イエスが聖霊によって、その人の内に住まわれ、霊的、実際的に結び合わされること。(これを身近な例で申せば、愛する人との結婚は、「手段」であると同時に「目的」。主イエスとの場合は、それ以上。<永遠のいのち>が与えられている、神秘的結合。(ヨハネ3:16他)
【注】<とどまる>ために、私たちがとるべき手段については、この後で。
Ⅱ-2.しかし、主イエスに<とどまり>続けることを妨げる、霊的・実際的、誘惑との戦いが、この地上に生きている限り、必ず続くことの警戒も。特に、自己の内に起こる、<肉の働き>(ガラテヤ2:20、5:17.19他)への警戒を。【事例】小生も、自己の内に起こる悔い改めと、主イエスの信仰告白の数日後、仕事上での怒り(聖書では、これらを<肉のわざ>(ガラテヤ5:19)と呼ぶ。)に当惑。⇒<肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。>(ガラテヤ5:19-21a)誘惑に襲われた場合、御言に信頼して従うことを(内心で、時には自分にだけ聞こえる声で宣言し、誘惑の場を離れましょう。)⇒、しかし、私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉において生きているいのちの、私を愛し、私のためにご自身を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです>(ガラテヤ2:19,20)
Ⅱ-3.主イエスとの生命的結合の恵みを賜り、その恵みを保持する為には、「恵みの手段」が必要。「恵みの手段」とは⇒
(1)狭い意味での「恵みの手段」は、聖書の御言、聖礼典(洗礼と聖餐)。
(2)広い意味での「恵みの手段」は、聖書の御言、祈り、礼拝、聖礼典(洗礼と聖餐)、地域教会での交わりなど。
これらの「恵みの手段」を用いることが、私たちの健全な信仰生活に、絶対必要不可欠。
Ⅱ-4.(1)【事例(続き)】小生の場合、(上記【本論Ⅰ-1】のあと)、22歳の時、名古屋市千種区にある自由ヶ丘教会(現在は、日本福音キリスト教会連合加盟)で、自己の罪の悔い改めと、主イエスへの信仰を表明する洗礼(バプテスマ)を受けて、地域教会に入会。
(2)バプテスマ(洗礼)が意味する、霊的な真理は⇒①神に対する自己の罪の悔い改めと、主イエス・キリストへの信仰の表明。すなわち、それまでの生き方に死に、十字架と復活の主イエスの命に生かされること。(ローマ6:1-11他)【注】バプテスマ(洗礼)の授け方には、浸礼、滴礼、灌水礼等があり、それらは、教派や冷気によって多少異なりますが、真理は同じ。
②そして、「使徒信条」で告白する「聖なる公同の教会」である、地域教会の教会員に。こうして<まことのぶどうの木>(ヨハネ15:1)である主イエスに与っている恵みを表明。
(3)平岸いずみ教会も、神の御言である「旧新約聖書」66巻を信じ、『使徒信条』を告白する「公同の教会」に属しています。これらの霊的、実際的出来事は、一個人と一地域教会だけとの関係で終わらず、時代や地域を超えた、日本、世界のキリスト教会、聖徒たちと、しかも永遠につながっていることを、覚えましょう。
(4)小生の場合、「聖書同盟」(スクリプチャー・ユニオン。18世紀から世界各地での聖書通読運動によって、各国ごとに独立運営。)の「聖書通読表」を、これまで60余年、使用。(かつてはこの「聖書同盟」が毎月発行する解説書『みことばの光』も使用。)また、(子どもたちが幼かった時は、聖書の絵本を使って、)基本的に毎日、「家庭礼拝」を。そのほかに、「夫婦の合心祈祷」を夫婦智に0歳を過ぎた今も(基本的に毎日)実行する惠み。(“恵みの手段”には、上記のほか、地域教会での交わりや活動がありますが、此処では、基本である聖書の御言からの事例のみを、ご紹介しました。)
【本論Ⅲ】上記、序3(3)⇒15:18-27主イエスの弟子(キリスト者)と<世>との関係。
Ⅲ-1.<世>は主イエスの弟子(キリスト者)を<憎み>(18節)、<迫害>(20,23,24,25節)します。(序1参照)しかし、私たち、キリスト者それぞれには、“召し(召命)”(ローマ11:29他)と“賜物”(ローマ12:3-8.Ⅰコリント12章,エペソ4:11,12他)は、違っています。しかし、すべてに共通する、キリスト者の究極的目的は、神の栄光をあらわすことです。(ヨハネ17:1.4,10。Ⅰコリント10:31他)【参考】17世紀にイングランド教会が作成した『ウェストミンスター大教理問答』、(子どもの為にも作成した)「ウェストミンスター小教理問答」の問い1と答えも同じ⇒(問い1「人間のおもな、最高の目的は、何であるか?」答え「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶこと」です。(黙4:11,ローマ11:36,Ⅰコリント11:36,詩篇73:24-38,ヨハネ17:21-23他)
【摘要/結び】私たちはみな、■自己の生来の罪ゆえに、生まれながら、神から切り離され、悪い実(箴言1:31,マタイ7:17他)しか結ぶことができない存在でした。■それが、神の御子イエス・キリストが、私たちの罪を贖うため、身代わりに十字架で死なれ、黄泉にくだり、三日目に墓から復活されたことによって、私たちに、唯一の救いの道が開かれました。■主イエスを信じたのちも、私たちの生まれながらの罪の性質(肉)は、私たちが地上で生きている限り、キリスト者である私たちにも、<肉のわざ>(ガラテヤ5:19以下)に陥れようと働き続けます。誰しもが、この霊的かつ実際的な戦い、葛藤を避けることができない現実があります(Ⅰテモテ1:12-17他)
■ですから、どこまでも、<まことのぶどうの木>(ヨハネ15:1)である、主イエスにしっかりと結び合わされ、(上記した)「恵みの手段」(本論2-3を確認)を用いて、主イエスに、そして父なる神に、聖霊によってお仕えして参りましょう。
■なお、皆様のうちに、まだ、主イエス・キリストを信じる信仰の告白をしていない方がおられましたら、教会の宣教師におもうしでになり、主イエスへの信仰のご指導を受けて下さい。
―祈り―