The Laver・旋盤
Main scripture :
テトスへの手紙 3:5,6
「3私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていたものであり、色々な欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合うものでした。4しかし私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、5神は私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。6神はこの聖霊を、私たちの救い主イエスキリストによって私たちに豊かに注いでくださったのです。7それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」
皆さんは覚えていると思いますが、リフレッシュためにこの幕屋の話の場面を思い出しましょう。昔イスラエル人はエジプトの王様ファラオに解放されたあと、彼らは荒野で大変な旅をしていました。その間に神様はイスラエル人に励ましや、守りや、導きなどをあたえようとしました。その目的のために神様はイスラエル人に幕屋を建てさせ、その幕屋に神様は現れてすむようになりました。もちろんほかの宗教と違って神様はこの住まいのような場所に縛られる方ではなく、むしろこの住まいにただ現れただけです。
幕屋はどういうものかと言えば、オシャレなテントみたいなものです。そして幕屋の内容はとても象徴的なもので詳しく見ていくと色々な面白い事を発見できます。この内容を理解するため、前回のメッセージと同じように、私たちは旧約聖書のイスラエル人であるとしましょう。
荒野で私たちは神様の幕屋の周りに住んでいます。幕屋はとても素敵なもので神様もいっらしゃって、興味深くってたまらないので入って見ましょう。色とりどりの幕屋の門を通って祭壇も通ってきました。あれ?何か水瓶みたいなものがありますよ。これは洗盤と言います。今日の説教の話題はこの洗盤です。
旋盤の説明:出エジプト記 30:17-21, 38:8
旋盤の置き場:出エジプト記 40:30-32
皆さんは衛生的であることの大切さが良く分かっていると思います。日本人は衛生的なことに対して非常に気を付けると思います。服も、車も、道もかなり綺麗、ですけれども、私はこれを思っている一番大きい理由はこれです:マスクを付けて、運転している日本人を見ると「さっすが日本人は衛生的だなあ」と私は思います。ですが、冗談抜きで見える汚れを綺麗にすることはもちろん大事ですが見えない汚れを綺麗にすることも大事ではないでしょうか。つまりウイルスや、ばい菌ですね。ばい菌やウイルスは死に至る可能性があるのではないでしょうか。従って良い衛生の習慣が必要だと思います。さて、これを常に考えながら続けて、洗盤を見てみましょう。
この洗盤というものは水が入っていて、誰かが祭司になる前に体全体を洗わなければなりませんでした。その上毎回神様のため奉仕する前に手と足を洗わなければなりませんでした。この洗盤 は私たちは汚いと思い出させてくれます。私たちの手は悪い行動を通して汚れ、唇も悪いことを言う事で汚れます。従って祭司と同じように神様のために奉仕したいならば、私たちが清くなければなりません。詩編24:3-4にはこうかいてあります。
詩編24:3-4
「だれが 主の山に登り得るのか。
だれが 聖なる御前に立てるのか。
手がきよく 心の澄んだ人
そのたましいをむなしいものに向けず
偽りの誓いをしない人。 」
さらに、洗盤は私たちが自分自身で自分を汚してしまった事を思い出させます。それなのに神様は清くなる方法を用意してくださいます。つまりイエス様を通してということなのです。この点は次の話題に繋がっています。それは現代とどのような関連があるか、どのようにイエス様とつながっているかという話題です。
Contrast 1: The difference between Physical defilement vs spiritual
初めに肉体的な汚れと霊的な汚れの違いを比べて説明したいと思います。まずイエス様の言葉をお読みします。マタイの福音書15:11でイエス様はこう言われました。
「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚します」。
この言葉はパリサイ人とイエス様の間の議論から出てきた話です。パリサイ人が誰か分からない人もいると思いますが、簡単にいうとイエス様の時代の律法の先生のことです。そしてこれらのパリサイ人はイエス様の弟子たちの仕来りに合わない行動に気づいてイエス様に文句を言い始めました。この行動とはパンを食べる前に、ちゃんと手を洗わなかったということです。この洗うことは汚れを取るよりも、儀式的なことでした。ですが、イエス様はこの議論の肉体的な汚れの焦点から霊的な焦点に移りました。イエス様の教えによると肉体的な汚れよりも霊的な汚れは非常に大切な事で、そして霊的な汚れは外から入る物ではなくて、むしろ中からくる物なのだと言っています。つまり自分の心からくる事なのです。マタイの福音書15:19と20節でイエス様はこのように続けました。
「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。」
このことこそが人の汚れの原因です。
具体的な例をあげると、ウイルスについて考えてみましょう。ウイルスは目で見えないものですけど、人間を毒する力があるでしょう。同じように噓つき、盗み、人を憎むこと、このような目に見えないことを通して人を毒する影響があります。また別の例をあげましょう。日本で空気を読むという表現があるでしょう。そして人々の間に何か問題があれば、雰囲気が悪くて、空気が良くないとすぐわかるでしょう。罪は同じようなものです。色々な罪がありますが、はっきり見える物と全然見えない物もあります。どちらも、私たちを汚します。
Contrast 2: Cleaning by water vs cleaning by the holy spirit
さて、次に水で洗うことと聖霊様に洗われることの違いについて述べたいと思います。使徒であるペテロは使徒の働き11:16でこう言われました。 ちょっとお読みします
「 私は主が「ヨハネは水でバプテスマを授けたがあなたがたは聖霊様によるバプテスマを授けられる」と言われた言葉を思い起こしました」。
さて今日の説教のテーマ「洗盤」をもっと理解するため、ここで聖霊様の働きについてもう少し考えたいと思います。
水はただ体を綺麗にする力がありますが、温泉だったらどんなにあらっても、自分の心を洗うことができません。ハードタイプタオルを使っても、茶色の薬湯に入っても洗うことができません。心の霊的な汚れを綺麗にしたいならば、霊的な力が必要です。
この聖霊様によって心を洗うことを説明するために、使徒のパウロが回心し、再生された経験について考えれば役に立つと思います。今日最初にテトスへの手紙を読みました。もう一回読みたいとおもいますが、今回は3-7節を読みたいと思います。
テトス3:3-7
「3私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていたものであり、色々な欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合うものでした。4しかし私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、5神は私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。6神はこの聖霊を、私たちの救い主イエスキリストによって私たちに豊かに注いでくださったのです。7それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」
この箇所について三つの点に絞って話したいと思います。
- まずパウロは救われる前どんな人だったでしょうか。「愚かで、不従順で、迷っていたものであり、色々な欲望と快楽の奴隷になり、悪意をねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合うものでした。」という人でした
- そして彼の救いは自分が行った義、つまり自分の行動を通してではありませんでした。
- どうやってパウロの汚れが取り除かれたか、どの力によって清くなったか、それは聖霊様の力によるのです。「神は聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました」
私たちも、パウロと同じように、イエス様を受け入れると聖霊様は私たちの心に入ってくださいます。この回心の時からこのような大きな変化が起こります。
さて、回心で聖霊によって私たちは霊的に洗浄されています。私たちの犯してしまった罪が全部神様に許されます。ですが、この洗浄ということは終わりません。もちろん許されている人として新しく、清くされたんですが、聖霊様の働きはここで終わりません。なぜなら、私たちはまだ肉体的存在で罪と戦わなければなりません。毎日毎日私たちの人生は聖霊様をとおして変えられ、洗浄されて行きます。この「洗浄されたがまだ洗浄されている」ことが理解できるようにヨハネ福音書13:4-10お読みしたいと思います。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。
さて皆さんこの箇所を覚えながら、今日のメッセージの最初を振り返ってみましょう。旧約聖書で祭司は祭司になる前に体全体を洗って清めましたが、そのあとも奉仕の度に手と足を洗わなければなりませんでしたね。旧約聖書の洗盤と先ほどのヨハネ福音書はこのようにつながっているのです。私たちは回心した時に昔の祭司のように体全体が聖霊様によって洗われて清められましたが、毎日足を洗う必要はまだあります。それは具体的にどいうことかというと、それは聖霊様によって、自分の人生に神様の御言葉に応じるということなのです。
まとめ
さて、ここでお話しをまとめたいともいます、前回の祭壇と洗盤を並べて比べてみましょう。幕屋の中にこの二つの物が置いてありました。最初に祭壇という物は血によって、清めをもたらしましたが、洗盤という物は水によって清めをもたらしました。
新約聖書もこの二つの洗浄について教えます。ヨハネの手紙第一1章7節を読むと祭壇の目的とイエス様のつながりがはっきりと分かります。
「 御子イエス様の血がすべての罪から私たちを清めてくださいます」
と書いてあります。
そしてエペソ人への手紙 5:25-26は洗盤の目的と聖霊様と神の御言葉のつながりをはっきり示しています。お読みします
「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられた。そうされたのはみことばにより、水の洗いをもって、教会を清めて聖なるものとするため
例えば、誰かが飲みすぎて酔ってしまい喧嘩をして人を殺してしまったとしましょう。国の王様はこの殺人をゆるして、解放しました。この人はとても喜んで王様の恵みに感謝し、王様の友達になりたいと思いました。友達として王様の家に入りたいのです。けれども、王様の友達として相応しくなるためにこの人は悪い習慣と性格を変えなければ王様の家に入れないと思います。そしてこの変化を起こす力が必要です。それは神様の働きがです。イエス様の血によって私たちは許されました、エペソ人への手紙 1:7「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の許しを受けています」。私たちは聖霊様によって清められて、新しい命と性質をいただくのです。ペテロの手紙第一1章23節にこう書いてあります「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神の言葉によるのです」。そして毎日の罪との戦いの中で聖霊様は一緒に戦ってくださいます。
イエス様の御業と聖霊様の働きによって私たちは清められ、神様の友達、そればかりか神様の子としても認められているのです。
「心に血が振りかけられて、邪悪な良心を清められ、体を清い水で洗われる、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」へブル人への手紙 10:22。