自分も愛されていると発見する喜び

私は30年近く前に教会に通うようになり、イエス・キリストを信じて、クリスチャンにもなりました。しかし、野球を始めた息子の送り迎え、シフト制の仕事を理由に少しずつ教会から距離を置くようになり、やがては全く行かなくなってしまいました。聖書を読む時間も徐々に減っていき私を愛してくださる神様からも離れつつありました。その間、思うようにいかない子育てに悩みながらも楽しいこともありました。でも、どこか満たされない思いも抱えていたと思います。息子が成人してからは彼の方向性が定まらないことに不安を覚え、その頃から認知の症状が出てきた両親に戸惑い、楽しいと思える時間はどんどん少なくなっていきました。

 そして父が亡くなった時、私は打ちのめされたのです。幼い頃から自分を可愛がってくれた父でした。私が壁にぶち当たった時に、心配してくれたのも父でした。そこには紛れもない愛がありました。それなのに、私は晩年の父に寄り添うことができませんでした。日々の生活が以前より忙しくなったとはいえ、父と過ごす時間を作ろうと思えば作れたのです。父のことを振り返り、私は自分の罪を思い知りました。その時、初めて、イエス様は私のために、私の罪が赦されるために十字架にかかってくださったと実感できたような気がします。それだけではありません。私が神様から離れていた間も神様はずっと共にいて下さった。そして、そんな神様の大きな愛を新ためて確認し、神様の元へ戻ろうとしている私のことを喜んで下さる。そう思えました。

すべて疲れた人、重荷をおっている人は私のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエス・キリストの言葉(マタイ11:28)

 ひとりぼっちだと感じる時、誰にも理解してもらえない時、自分の愚かさに耐えられない時、何もかも上手くいかなくて投げ出したい時…人生には楽しい時もあるけれど、どうしょうもなく辛い時もあると思います。ましてやコロナ禍にある今、先行きが見通せず不安になっても不思議ではありません。私はキリスト教会に行って、心の安らぎを見出しました。これを読んでくださってるあなたも、キリスト教のことが何も分からなくても、そんな不安を誰かに話したい、誰かと分かち合いたいという思いが少しでもあるのならば勇気を持って教会へ足を踏み入れてみませんか。心よりお待ちしています。

この文章はいずみ教会のメンバーによる