私を支えているもの

 樹齢300年という木を見た。3人で腕を回してやっと、抱きしめられるような太い木だ。この木はここから動くことなく、江戸時代からここに居て一人の人間が生きるよりも、ずっと長い年月を生きて、たくさんの人の悲しみや喜びをずっと眺めてきたのだ。青々と繁る葉が、ざわざわと風に揺れる音をききながら思う。これだけの木を支えている、地上の木以上の量の根。

 木を支えるためだけに、見えない暗い土の中で働き続ける根。それなしには、この木は立っていられないのだ。立派な木だねと、見えているものを褒める時、その前に目には見えない、支えているものを称えたいと思う。

 私もありがたいことに、日々たくさんの人に支えられて生きている。でもそれだけでは、きっと足りない。それだけでは、強い風には倒れてしまうかもしれない。日照りのあとには枯れてしまうかもしれない。私の悲しみに対し、 喜びや希望を、それ以上に備えて支えてくれている何か。

 私という木が、風に倒されないよう、枯れないよう、それだけでなく、葉を繫らせて、暑い日には、誰かのために木蔭を作り憩いとなれるようにと栄養を送り続けてくれる何か。

 それが何なのか、今はわかる。私の様に小さな者ですら、大切に思い、24時間365日見守ってくれる方がいて、それが私を造り、私を愛してくださる神様なのだということが。

 何かを根持って、生きることはよくないことだが、生きていくための根持つことは必要なこと、と思う。人間のいのちの根は命の源である神様。その神様は今日も私を生かしてくれる。見えるものの反対にあるものを、いつも意識していると心の目で見えてくるものがある。創造主なる神様は目で見えないけど、その愛を知り、それによって生きることができる。 いつの時でも、神様の愛を見つめて、神様に感謝して生きていたい。

私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」              第2コリント4:18、聖書                  

文書はいずみ教会のメンバーの一人による