2024年4月7日メッセージテキスト「香りの祭壇」

皆さんおはようございます。唐突ですが皆さんは誰かを愛したことがありますか。お母さんや父さん、友達や恋人など、人間として誰かを愛することは当然ですね。そして愛している相手と話したいのではないでしょうか。例えば、最近自分がやった事や考えや未来の望み、または相手のアドバイスを聞きたいことなどについて分かち合うことがあるでしょうか。同じように神様は私たちのことを聞きたいと聖書に書いてあります。クリスチャンにとって神様と話すことは祈りです。そこで今日の説教の話題は香りの祭壇と祈りです。


今日の説教でいくつかの質問に答えたいと思います。それは

1.イエス様は今どこにいるのか、そして何をされているのか?
2.イエス様は天に戻って行ったのはなぜでしょうか?
3.私達の救いの保証ほしょうはどうやってしるでしょうか?
4.神様は私達の祈りを本当に聞いてくださるでしょうか?

これらの質問に答えるために旧約聖書の幕屋を見てみれば答えは明確になります。ですが幕屋のことをあまり知らない方もいらっしゃるかもしれませんので幕屋とその内容をちょっと紹介したいと思います。


旧約聖書の幕屋と言えばとても古い時代のお話しなので、現代のキリスト教と関係ないと思うかもしれませんが、幕屋の話しをとおして、神様の性格や、罪の重要さやダメージ、救いの道と神様との交わりなど、このようなことを理解することができます。なぜかというとへブル人への手紙によると、幕屋は「天にあるものの写しと影」というものだからです。これは幕屋の一つの目的ですが、もう一つの目的があります。この二番目の目的についてもへブル人への手紙は述べています。

へブル人への手紙10章1節には「来きたるべき良きものの影」と書いてあります。
この来るべき良きものの影とはメシアのことで、世界の救い主であるイエス様ということなのです。イエス様の人生、死とよみがえりの後あと生いきている私わたしたちは歴史を顧りみることができますので、幕屋の祭祀の働きと幕屋の象徴的な役割や、それと照らし合わせてイエス様さまの御業を比べることができます。そうするとイエス様について持っている、いろいろな質問の答を発見します。たとえば、なぜイエス様はそのような生活をおくったか、なぜイエス様の死は必要だったか、なぜ彼のよみがえりはそんなに必要なのか、なぜ天にもどらなければならなかったか、という質問の答を発見できます。
しかし、聖書にある幕屋を勉強するまえに、その話の歴史的背景が分からなければこのような話しは分かりにくいかもしれません。そこで出エジプトのストーリーの概要を見てみたいと思います。
聖書2巻目の出エジプト記は神様の民イスラエル人の歴史の中の一部分を記録しています。この本はイスラエル人が飢饉のせいでエジプトに着いたあと、エジプトの王であるファラオに奴隷として大変な生活をさせられたことから始まります。さて、神様がイスラエル人を解放されるためにモーセというイスラエル人の一人を選ばれました。モーセの仕事はイスラエル人が解放されるようにファラオに神様の願いと注意を伝え、ファラオとエジプト人にいろいろな印を示すことでした。ファラオとエジプト人の心は硬くてイスラエル人を解放してくれなかったので、神様は10の災いを送られました。結局ファラオがイスラエル人を開放して、そしてイスラエル人は神様に約束の地に導かれました。その旅の間にこの幕屋の話しがあるのです。そしてその大変な旅をしている間、神様は彼らに励しや、守りや、導きなどをあたえようとしました。その目的のために神様はイスラエル人に幕屋を建てさせ、その幕屋に神様は現われてすむようになりました。もちろんほかの宗教と違って神様はこの住まいのような場所に縛られる方かたではなく、むしろこの住まいにただ現れただけです。
さて、全般的に幕屋はもちろん面白いですが、幕屋の内容はとても象徴的なもので詳しく見ていくと色々な面白い事を発見できます。幕屋は三つの部分で成り立っています。それは中庭、聖所そして至聖所という部分です。順番にこの三つのパーツをまとめてみましょう。中庭に祭壇と洗盤が置いてありました。

中庭
・祭壇
祭壇は血によって人の罪を清めるため備えられました。当時この儀式はいけにえを捧げることをとおして人々は清められました。当時に繰り返かえさなければならない儀式でした。
現在キリスト教ではこれはもう必要ありません。なぜかというと、イエス様の御業を信頼することを通して神様に許されることができるからです。
へブル人への手紙10章4節と10節にこう書いてあります。

簡単に言うと祭壇とはイエス様の十字架の上での御業を指しています
・洗盤
そして洗盤は水瓶みたいなもので水によって人を聖なるものとし、清めるため備えられました。旧約聖書で祭司は祭司になる前に体全体を洗って清めましたが、そのあとも奉仕の度に手と足を洗わなければなりませんでした。現在ですが私たちは回心した時に昔の祭司のように体全体が聖霊様によって洗われて清められましたが、毎日足を洗う必要はまだあります。それは具体的にどういうことかというと、それは聖霊様によって、自分の人生において神様の御言葉に応じるということなのです。
簡単に言うと洗盤とは聖霊様の働きを指しています。それは幕屋の中庭に置いてある物の目的でした。
・聖所
さて今日の中心である香りの祭壇という物は聖所という場所に置いてありました。聖所の中の物は神様をもっと深く経験するための方法として備えられました。
・至聖所
第三番目の部分は至聖所です。これは聖所の中の一つの部屋ですが、とりあえず簡単に説明すると、ここは神様の王座でした。
したがって、この幕屋の内容を順番に見てみると、面白いことに気づきます。それは神様の御業の歴史的な順序です。

つまり
•祭壇はイエス様の十字架の上での御業
•洗盤は聖霊降臨祭、つまりペンテコステにイエス様が聖霊様を送られた出来事です。
•そして香りの祭壇は、私達のため今、果たしてくださっているイエス様の奉仕をわしています。
さ、幕屋の概要を見るのは終わります。一息つきましょう。

さて、次に香りの祭壇を見てみましょう
この幕屋の香りの祭壇の目的は、イスラエル人が聖所の外で祈る時に、祭司がその代表として香りを捧げたという物でした。なぜなら一般の人たちは罪人であって自分の清さで神様に祈りを捧げられないと思われていたからです。ですから、祭司は人々の祈りと同時に甘い香りを捧げることをとおして、神様まで無事に祈りが届くようにこの儀式を行いました。
さて、イスラエル人はいつでも祈れましたが、イスラエル人のために祈る奉仕があった特別な祭司がいました。この祭司はほかの祭司と違います。特別な仕事しごとがあったから、 大祭司と呼ばれました。神様の御前にイスラエル人の代表として、香りの祭壇でイスラエル人のために祈りました。この奉仕を行う時に特別な胸当を着るのですが、この胸当に12個の宝石が付けられていました。この12個の宝石の意味はイスラエルの12部族を表わしています。したがって大祭司は胸当によって自分の心の中に12部族を覚え神様の御前にその12部族と共に進み出ました。
現代の私たちも昔のイスラエル人と違っていません。人間として同じように生きていて、罪を犯してしまい、自分の功績で自分の祈りに答えを期待することができません。ですけれども、祈りを捧げるために祭司が香りをたく必要は私たちにはなくなりました。現代の私たちは、イエス様がヨハネ福音書16:23~24で教えられたように、イエス様の御名において祈れば、私達じゃなくてイエス様の功績でその祈りは無事に神様まで届とどき、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。ヨハネ福音書16:23~24を読みます。

さて大祭司に関しては、この人の特別な奉仕は今もう必要ないですが、現代の大祭司はこの世にいる朽ちる人間ではありません。私達の大祭司はイエス様です。

へブル人への手紙7:23~24をお読みします。

この箇所ではペテロがイエス様を「知らない」と言った時に関する話です。その時にペテロは誘惑にまけましたが、彼の信仰は失われなかったのです。なぜなら、イエス様がペテロのために祈ったからです。この事実によって励まされるでしょう。イエス様は今も生きておられて、私達のために祈ってくれます。私達はイエス様をわすれるとしても、イエス様は私達のことを忘れません。愛してくれる友人のように私達のことを覚えてくださいます。

第二番目は私達が罪に落ちた時ときに、神様が私達を拒否しないようにイエス様は弁護人としてとりなしくださることです。 例えば、法廷で、ある弁護人は被告人のために弁護するとしましょう。地上の弁護人は彼の弁護依頼人の違反の重さを軽減するために出来るだけ弁解をします。ですがイエス様はそうしません。地上の弁護人と違ってイエス様は私達の罪を軽減しません。そしてイエス様は私達の功績を神様に伝える必要はありません。なぜかというと、神様に許される基準は私達の功績ではなく、イエスキリストの生贄は私達の許しの基準だからです。 この故に、自分はどんなに酷い罪を犯しても、どんなに恥を感じても、あなたは神様に決して見捨てられることはありません。そう思えない時は神様からの考えではありません。覚えてください、自分の過去の罪、現在の罪、将来の罪もイエス様がこれら全部の罪を十字架で担いました。あなたの罪で絶望する誘惑が来る時に、十字架の上のイエス様に目を向けてください。私達の主の最後の言葉を思い出してください。
「完了した」。

さて私達にたいしてこれらの事実はどんな意味があるのでしょうか。まず、イエス様を自分の心にまだ受け入れていないならば、残念ながら、神様に祈っても自分の祈りは聞かれません。なぜかというと、自分と神様の間に壁がまだあるからです。この壁を壊す方法は一つしかありません。つまりあなたのためのイエス様の十字架の上での御業を信頼して、悔い改めることを通してということなのです。そうするとイエス様の功績によって神様に認められるようになるのです。それゆえ神様の御前に大胆に近付き、祈ることができるようになります。したがって神様が聞いてくださる祈りは「悔い改め」の祈りです。そのような祈りは、以前は外から覗き込むことしかできなかった、天国の門を、開く力があるでしょう。そのような祈りを通して、救いを持って清められ、神様と深い交わりができるのです。

さて、信者であれば私達はどこでも、どんな時でも、必要がある時に直接にイエス様に近付づくことができ、更に哀れみ、恵みを見つけるはずなのです。

最後にイエス様はなぜ天国に戻って行ったのかという問いについて考えたいと思います。皆さんは、イエス様がまだこの世に残っていたほうが良いと考えことがあるでしょうか。私はこの質問について良く考えましたが、いくつかの理由がありますが、イエス様の大祭司としての奉仕によって一つの答えを発見できます。

へブル人への手紙10:12〜13はこう書いてあります。「キリストは罪のために一つのいけにえを捧げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。」
この箇所は詩篇110編1節でのイエス様についての預言です。マタイの福音書22:41~46でイエス様ご自身が彼の人生と奉仕にこの箇所を当てはめました。イエス様が天国に戻って神の右に座るのが昔から神様のご計画です。イエス様が天に戻って、この世に聖霊様を送るのは神様が決めたミッションの方法であるのです。そしてイエス様が天国に戻なかったとしたら、この旧約聖書の預言はなしとげられないようになってしまい、イエス様の言葉も虚しくなります。
このように旧約聖書の幕屋をとおして神様とどのように関係づけるのかという計画は今日でも有効です。この計画は神様の選えらばれた方法であり、天にあるものの写しと影で神様を理解するために助けになるものです。神様は自分の方法に縛られていないですが、神様を深く知ることができるように私達のためにその方法を守まもっておられます。